このページでは2017年11月4日に向けてのカウントダウン文章を紹介します。
※所属等は記載当時のものになります。

#99~#90

#99 中村紀洋(近鉄・オリックス・ドジャース・中日・楽天・横浜)
いわゆるノリさん。 素晴らしい実績を残す→ビッグマウス&銭闘(黒化)→再就職難航→白化→移籍先で実績を残す(以下繰り返し)の黒ノリ・白ノリローテーションを繰り返すことで有名。
(黒)「中村紀洋というブランドを考えて近鉄で終わっていいのか」
(黒)「合併球団に愛着はないんや」
(白)「中日に骨を埋めたい」※翌年FAし移籍
(白)「代打でもブルペンキャッチャーでもなんでもやる」
など、美しいバット投げの軌跡とともに振れ幅の大きすぎる名言の数々を残した。
現在は浜松開誠館高校の硬式野球部非常勤コーチを勤める。全打席フライを打てというフライボールレボリューション指導により本塁打が倍増するなど成果を挙げている(なおバット投げが倍増したかは不明
#98 アウディ・シリアコ(DeNA)
日本の独立リーグチーム「石川ミリオンスターズ」で結果を出したことから2016年冬にDeNAにスカウトされて入団したドミニカ国籍の内野手。
元々「多分無理だけど打ってくれればもうけもん」という軽い気持ちでのスカウトだったため育成契約する予定だった。しかし、「26歳以上の外国人選手については育成登録から支配下登録への移行は3月末まで」という誰がうれしいのか全くわからないルールに阻まれて支配下登録することになる。
結果としてはオープン戦で打ちまくり開幕後はグダグダというベイスターズの3塁手にありがちな展開となっているが、「ロマックよりは安いから打てなくても気にしない」という謎理論でファンは納得している模様。
名前が「アウディ・シリアコ」であることから、オープン戦で打ちまくった際にはアウディ(車)のTwitterアカウントが応援ツイートをするという現象も起こったが、シリアコの調子が落ちると共に応援ツイートもひっそりと消えた。
#97 マイク・ブロードウェイ(DeNA)
最速161キロ(自称)という地雷臭を撒き散らしながらシーズン途中に来日。2軍で6点台ながら2016年8月16日に昇格。翌17日ブロードウェイミュージカル神宮公演が実現。初球バレンティンにいきなりホームランを打たせファンを沸かせると、最後には8年目の上田に通算8本目となるホームランを浴びるなど、1回3安打5失点の投球で全ベイを泣かせた。
結局ブロードウェイミュージカルは5公演しか開催されず、シーズン終了後あえなく解雇となった。
#96 條辺剛(巨人)
中継ぎとしてフル回転した。現在はうどん屋としてフル回転している。
#95 サビエル・バティスタ(広島)
ドミニカ出身の広島のやべーやつ。右投右打。外野手、一塁手。
来日前はシカゴ・カブス傘下のマイナーリーグのチームでプレーをしていた。2017年6月3日千葉ロッテマリーンズ戦にてデビューし、6回裏の代打でプロ初打席本塁打。翌日4日にも代打で本塁打を打ち、初打席から2連続で本塁打を記録している。守備はとても苦手。
試合後のヒーローインタービューではブルペン捕手(チームスタッフ)兼スペイン語通訳のクレートを連れ、彼のカタコトの日本語がファンの中で人気となっている。
例:「あのぅ……高いボールを、どんどんどんどん振るに、いってました」「まあ、やっぱり、あのー、自分の武器は、あのー、パワー。そのパワーで、あのー、あそこまで飛んだです」
#94 原口文仁(阪神)
育成からのシンデレラストーリー主人公。
なお魔法が切れてガラスの腰が砕け散った模様。打てる捕手…(´;ω;`)ウッ…
#93 東野峻(巨人)
フォアボールが多く結果として球数がかさみ、テンポのよくない彼の投球スタイルを当時の原監督が評した言葉、「砂遊び」。
このほのぼのとした単語に「子供のすること、真剣味がないこと、何か形をなそうとしても無に帰する徒労感」などなど、さまざまな負のイメージを乗せることができるんだなぁ…と気付かされるところがなんとも怖い。
#92 与田剛(現楽天コーチ)
広い肩幅から放たれる157km/hの「剛」球で衝撃のデビューを飾り新人王を受賞したが、広いから頑丈というわけではなく肩肘の故障のため現役時代は非常に短期間であった。
テレビのスポーツニュースコーナーでアナウンサーと並ぶと特にその異様な肩幅が際立つ。松井秀樹さんも体格はとてもよいはずだがこの有様である
#91 久保 裕也(楽天)
巨人、DeNAでの2度の戦力外通告を乗り越え、今年2月に楽天に入団したベテラン右腕。
1軍昇格当初は敗戦処理からのスタートだったものの、2017年7月23日に移籍後初勝利を上げ、お立ち台でヒーローインタビューに呼ばれるほどに。
ちなみに楽天ホームゲームでのヒーローに贈られるヒーロー賞の1つに「楽天スーパーポイント10万円分」があり、久保投手の推定年俸は600万円とされているので年収からすると結構な臨時収入となるのではないでしょうか。
(※1年間1軍に居た場合の最低年俸が1500万と定められているため、1軍登録日数に応じて別途日割り計算で支給されると思われます。)
#90 ロベルト・スアレス(福岡ソフトバンクホークス)
彼がソフトバンクに入団した際に与えられた背番号90は野球漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武がつけていたことから南海・ダイエー時代から欠番が続いていたが、2014年2月に連載が終了したため、作者の水島新司からも了解を得て彼がつけることとなった。
漫画の登場人物と実在の選手の背番号がかぶることを避けていたなんて、なんと粋なはからい!

#89~#80

#89 王貞治(WBC第1回大会 日本代表監督)
先日稲葉篤紀氏の野球日本代表(侍ジャパン)の監督就任が発表されましたが、World Baseball Classic(WBC)第1回大会で見事日本代表を優勝に導いた王貞治氏を忘れてはならないでしょう。
世界のホームラン王として通算本塁打数は868本、ジャイアンツ・ホークスの監督としてリーグ優勝4回、日本一2回の記録を残し、今なおソフトバンクの球団会長として精力的に活動されています。
ちなみに背番号89は語呂合わせで「や・きゅう」と読めることもあり、他の背番号より特別に感じる人もいるそうだとか。
#88 池山 隆寛(現楽天コーチ)
現楽天チーフコーチ。
愛称「ぶんぶん丸」。走攻守揃ったヤクルト史上最高の遊撃手(異論は認め…たくない)
池山・パリッシュ・広澤の1989年クリーンアップは主に巨人斎藤雅樹相手に三振を量産、ほんともう笑えるくらいにクルックル。巨人戦しか中継されない地方のヤクルトファンを、恐怖のどん底に叩き込んだ。
関根→野村に政権交代すると人が変わったかのようにID野球に傾倒、”ある程度”の確実性を伴った真のチーム主軸に成長した。
ちなみに野村が初めて池山を見て評した言葉は、「真面目すぎてがっかりした、もっと天才型かと思ってた」

ひどい話だ。
#87 仁志 敏久(WBC日本代表コーチ)
にし としひさ。
巨人時代の背番号は「8」。
にし が はち でどう見てもダジャレである。
#86 中村 一生 (現オリックスコーチ)
中日を戦力外になった後にオリックスで そこそこ ファンの記憶に残るか残らないかのラインで活躍し、現在はコーチを務めるまでに。顔が小さくて首が長く、どこかアルパカを思わせる。
#85 辻 発彦 (現西武監督)
現埼玉西武ライオンズ監督。
野村克也をして「日本プロ野球におけるベストナインを選ぶなら、セカンドは辻」と言わしめた名手で、二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。
今春、西武の前身である西鉄のファンだった父親がキャンプ前に亡くなるも、「今年のペナントを勝ち取って優勝したい」と葬儀に参加しなかった熱い男。
写真は中日ドラゴンズ二軍監督時代のもの。
#84 伊藤 智仁 (現ヤクルトコーチ)
現ヤクルト一軍投手コーチ。
無援護界のレジェンド。

150km/hを超える快速球と140km/h近い真横に滑る変態的なスライダーを武器に、ルーキーイヤーの防御率は驚異の0.91をマーク。しかし、この異常な数字にもかかわらず7勝(12先発)に留まったところに、バルデスおじさん並みの悲哀が感じとれる。
特に、16三振を奪取しながら篠塚にサヨナラホームランを打たれた巨人戦での悔しがりぶりはファンの涙を誘った。

「人間が投げるボールではない」と言わしめた高速スライダーの影響か、実働3ヶ月で肘痛のため離脱。 野村このやろう。 その後も度重なる故障に悩まされた。
尚、彼の高速スライダーは、20年以上経った今でも週べの「魔球」特集でトップ3にランクインしている。

現役引退後ヤクルトコーチに就任したが、彼の故障・リハビリの経験がチームに活かされているかどうかは甚だ疑問である。
#84 島田 直也(日ハム→横浜)
横浜を長年支えた中継ぎ投手。
抑えの佐々木が有名すぎて霞んでしまっているが、その前の7回・8回をしれっと抑えて佐々木につなげる職人肌の投手だった。

奥さんは常総学院高校時代の野球部のマネージャー。息子も同じ常総学院高校のエースとして甲子園出場を果たしたが、なんと息子の奥さんも野球部マネージャー。2代続けてリア充かよ。
#83 礒部 公一(現楽天コーチ)
最後の近鉄選手会長にして初代楽天選手会長。
強肩捕手とのふれこみでプロ入りするも、外野手を兼任したことで送球時に変なクセがつき、空前絶後・超絶怒涛のワースト盗塁阻止率(.109)をマーク。あえなく外野手専任となった。
なぜかチャンスで回ってくることが多く高い得点圏打率を誇ったこともあったが、併殺もすこぶる多かった。このため、いまだに併殺をISOBEと呼ぶやきう民も存在する。
#82 松元 ユウイチ(現ヤクルト二軍コーチ)
現ヤクルト二軍コーチ。
球界一バットを短く持った男。
WBCブラジル代表4番を務め、ヤクルトでも4番に座ると何故か良い成績を残した。
ブラジルと日本の二重国籍であるが、特に問題視されていない。
#81 吉岡 雄二(富山GRNサンダーバーズ監督)
日本の野球独立リーグ、BCリーグ富山の監督。
最近は、テレビ朝日系列「とんねるずのスポーツ王は俺だ!」の企画「リアル野球BAN」のチーム帝京の一員として見かけることが多い。
チーム帝京の対戦相手は現役のプロ野球選手または引退した元プロ野球選手だが、そちらは木製バットを使用しているのに対し、元プロの吉岡はタレントと同じ、ボールが飛びやすい金属バットを使用という謎がある。
#80 森 繁和(現中日監督)
いわゆるモリシゲ。落合監督時代の中日でバッテリーコーチ(後にヘッドコーチ)を務め、コワモテグラサンオールバックのおっさんがベンチで若手投手の肩をゆさぶり詰め寄る姿はどうみても恫喝だったが、本人によればあれは激励。
オフシーズンにはドミニカ共和国に通って新戦力発掘に力を入れ、飛行機が火を噴いたり3度ほど銃をつきつけられたりしながらブランコ、ネルソン、デラロサ、パヤノ、セサル(小声)など多くの選手を見出した。
なおこれはという選手がいても、酒を飲ませてみて酒癖の悪い選手とは契約しないというポリシーを語っていたが、なぜかこの発言が最近になって注目を浴びた。

#79~#70

#79 濱中 治(現阪神コーチ)
登録名を本名から「濱中おさむ」に変更したときは、某漫才コンビの片割れを彷彿とさせると総ツッコミが入った。
阪神→オリックス→ヤクルトと移ったが、いずれの球団でも応援歌に恵まれた。
#78 カツノリ(野村 克則)(現ヤクルトコーチ)
現ヤクルトバッテリーコーチ。
ダン野村、ケニー野村という濃い兄を持つが、鬼才野村克也の血を引くのはカツノリのみである。
ヤクルトにドラフト3位という謎の高順位でコネ入団するも、全盛期の古田敦也には敵うはずも無く。以後阪神→巨人→楽天と移籍、楽天での引退試合では6盗塁を許してしまった(走るロッテもぐう蓄)。
現役時代の成績に光るものは皆無であったが、人格や指導力には定評があり引退後はコーチとして引っ張りだこ。巨人阿部が怪我で不振に陥った際、他の人間は距離を置くのにカツノリコーチだけがずっと傍に寄り添って面倒を見ていたという話には、全やきう民が泣いた。。
#77 斎藤 雅樹(現巨人一軍コーチ)
バブル景気と共に覚醒し、バブルがはじけると衰え始めた「平成の大エース」。
巨人の先発ピッチャーに彼の名前を見つけると、他球団ファンは試合前にTVを消したものである。
王監督にはメンタル面のもろさから冷遇されたものの、藤田監督に投手としての気の持ちようを注入され超人化した。餅は餅屋。
特に1989年にマークした”11試合連続完投勝利”は彼の経歴の中でも白眉であるが、11試合中ヤクルトが4試合、大洋が3試合とかなり偏った対戦であったことはあまり知られていない。そらそーなるわ。
#76 近藤 真市(現中日コーチ)
高卒ルーキーにして日本プロ野球史上初の「プロ入り初登板ノーヒットノーラン」の快挙を達成し華々しいデビューを飾ったが、肩の故障により実働期間は約2年。太すぎ短すぎの選手人生であった。
ケガをした選手によくあることだが、登録名を途中から「真一」→「真市」に変更している。
#75 小山 伸一郎(現楽天コーチ)
楽天の創設期を支えた右腕。
中日から無償トレードで楽天に移籍し長らくブルペンを守り、5年連続50試合以上登板という地味にすごい記録を持つ(史上11人目)。
肌寒い春先の屋外球場の仙台だろうと、ユニフォームは常に半袖であったことからファンからは「半袖」と呼ばれる。本人曰く、長袖だと袖が気になって投げづらいのだとか。
ちなみに現役時代の背番号は57だったので、コーチ時代の背番号は桁が入れ替わっている形になる。
#74 西口 文也(現西武コーチ)
西武一筋21年、ノーヒットノーラン未遂を3度経験するも結局ノーヒットノーランは達成できなかった悲運のエース。
1度目と2度目は9回2アウトまでノーヒットノーランだったものの、いずれもヒットを打たれて達成ならず。
3度目に至っては9回終了まで完全試合だったが、味方の援護なく延長戦に突入し10回にヒットを打たれて完全試合を逃した。
晩年は先発として試合を作り勝ち投手の権利を持って降板するも、中継ぎが炎上し勝ち星を逃すことが多かった。
#73 ホームランなみち(ホームランものまね)
野球選手のフォームものまねをすることでごく一部で有名(※写真のフォームは種田仁)。
芸名に「ホームラン」をつけるほどの野球好きと思いきや、芸名を命名されて本名から改名した後に野球ものまねを始めた模様。
認知度は上がっているらしく、今年は西武ライオンズ主催のイベントに呼ばれたほど。
主にパチンコ・パチスロ大好きアイドルとして活動している。
#72 若田部 健一(現ソフトバンクコーチ)
名前と甘いマスクから愛称は「若様」であったが、メンタルの方も「ほらあそこの若は…」と陰口を叩かれるくらい甘かった。ただ西武に対してはめっぽう強く、「若様獅子退治!」とかなんとか小馬鹿にしたような見出しが当時のスポーツ紙を飾っていたものである。
晩年、相思相愛の横浜ベイスターズにFA入団するも、横浜時代は1勝に留まっている。。
#71 久慈 照嘉(現阪神コーチ)
本塁打0の新人王は後にも先にもこの選手だけではなかろうか。
まさに守備だけで飯が食えた選手で、90年代最高のショートとして久慈の名前を挙げる野球ファンもいる。
「今牛若丸」ムッシュ吉田氏と体格が似ていたため「平成の牛若丸」とも呼ばれたが、阪神→中日を経て再度阪神に戻った時にはちっさいおっさん化しており、自然と牛若丸と呼ぶ人間も減っていった。
現役晩年は試合終盤の21時前後に守備固めとして出場することが多く、「9時に久慈」と、どストレートにも程がある呼ばれ方をしていた。
#70 仰木 彬(西鉄→近鉄→オリックス)
背番号は2005年オリックス監督時のもの。
今夏の甲子園にも出場していた、福岡県立東筑高校から西鉄ライオンズに投手として入団したが、キャンプ中の投球を見た三原監督により「球筋が素直すぎる」として、即座にコンバートされて二塁手に。以降、1967年まで現役、その後2年間を西鉄でコーチを勤め、1970年から近鉄コーチに。1987年オフに近鉄監督に就任。翌1988年は優勝争いを西武と繰り広げたが、惜しくも届かず2位。この時の最終日の様子は、「10.19」として知られる。翌1989年にパリーグ優勝。1992年オフに近鉄監督を退任後、1994年シーズンからオリックス監督に就任。1995年、1996年にパリーグ優勝、1996年には日本シリーズも制した。2001年シーズンを持って監督退任後、2005年シーズンにオリックス監督として再登板。この年のシーズン終了後、体力の問題として監督を退いたが、同年12月15日に逝去、享年70歳。実は、1990年中盤から肺がんを患っていたが、この事実は球界関係者ではごく少数しか知らなかった(その、ごく少数の一人である金村義明は、仰木逝去後の全国放送の生放送中号泣していた)。
選手としては西鉄黄金時代の内野陣の一角として貢献し、中西太や豊田泰光に比べると地味ではあるが、実は1試合6安打のパ・リーグ記録を保持している(他に城島健司が記録)
監督としては、日替わりのような打順組み替えなどの奇策で、「仰木マジック」と呼ばれる采配を振るい、野茂英雄、イチロー、長谷川滋利、田口壮などを育てるが、やたらと育てた選手がMLBに移籍している。一方、投手起用についてはかなり無茶な面があり、監督時代の投手コーチとは大抵衝突している。また、パンチ佐藤に芸能界への転向を薦めたのも仰木である。なお、奇策といわれるが、データに基づく緻密なものであったことは特筆されるべきである。
グラウンド内でやることやってれば自由放任であった西鉄でも、豊田泰光と並ぶ遊び人で、三原監督から「仰木と豊田には遊びに制限かけんと」と言われていたという。酒も強く、また、評論家時代には出演したニュース番組で小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたとのエピソードもあり、それらの話のためかどうか、なかなか監督になれなかった、との説もある。そのためか、監督時代もグラウンド内で結果を出していればとやかく言わなかったし、そもそも門限設定するかどうかのスタッフミーティングの際「そうなれば俺が一番困る」と真っ先に反対したとの話もある。

#69~#60

#69 小林 正人(中日)
竜のコバマサ。
プロ初登板で阪神・桧山に頭部死球を与え一発退場という鮮烈デビューを飾る。
後にサイドスローに転向し、巨人・阿部などへの左のワンポイントリリーフとして活躍。ワンポイントフォアボール・ワンポイントデッドボールを含む多くの名勝負を繰り広げた。現在は中日の球団広報を担当しており、ヒーローインタビュー時には選手を誘導する彼の姿を見ることができる。
#68 西本 幸雄(近鉄監督)
背番号は近鉄監督時代のもの。
旧制立教大学から学徒動員を経て、ノンプロから毎日オリオンズでプレー。その後、コーチ、監督を務め、阪急、近鉄で監督。パ・リーグを8度制するが、日本シリーズではついに勝つことができず、「悲運の名将」と呼ばれるが、本人は「悲運ならそもそも戦死しているし、8度も優勝させてもらったんだから」と、その呼び名を否定している。

阪急時代には、山田久志、福本豊、加藤英司という1968年ドラフト組を始め、足立光宏や長池徳士など、近鉄では鈴木啓示、梨田昌孝、羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介などを指導。「監督信任投票事件」、「羽田殴打事件」などで知られる通り、こわもてのイメージもあるが、指導した選手からは実に慕われており、近鉄監督勇退表明後、シーズン最終戦の阪急戦の試合後には、近鉄・阪急両チームの選手から胴上げされている。

野村克也からも広岡達朗からも賞賛されるプロ野球監督、というのはちょっと例がないのではなかろうか。なお、その野村克也を、1980年のオールスターに「ベテランの力を借りたい」として、監督推薦で選出している(このシーズンが野村の現役最終年)。
立教の後輩であった大沢啓二(「大沢親分」ですな)は、西本に全く頭が上がらなかったという。

プレーヤーとしては、左投げでありながら二塁手として公式戦に出場、という珍しい記録を持っている。
#67 西 清孝(南海・ダイエー→広島→横浜)
1984年にプロ入りし、初勝利まで13年かかった苦労人。

プロ入り後になかなか芽が出ないまま3球団を渡り歩き、横浜に入団した際には打撃投手としての採用だった。
だが本人は現役復帰を目指しており、地道に練習とアピールを積み重ね、ついに選手として試合に出場する機会を得る。
敗戦処理投手としての役割が多かったが、1997年4月25日に初勝利。この年のオフに結婚した際のコメントが「年俸アップ分で嫁さんに冷蔵庫買います」。いい人。

翌年の1998年に横浜ベイスターズは日本一になるが、西が登板した際には大体が負け試合であるにも関わらず非常に大きな声援が飛んでいた。
初勝利までの長期間の努力や人柄の良さが球団にもファンにも深く愛された選手である。
#66 岡田 幸文(ロッテ)
ロッテの外野手。2010年のプロ初打席から現在までホームランを打ったことがない。これは日本プロ野球記録であり、2016年度シーズン終了時点で2443としている。

なお今シーズンに至ってはホームランどころかヒットすら打っておらず、33打数0安打の打率.000である(8月30日時点)。
もし次の打席でヒットを打った場合でも打率は.029という見たことのない打率となる。
しかし2軍では3割前後の打率を残しており、まったく打てないというわけではなさそう。

プロ初打席からカウントしない、連続無ホームラン記録は赤星憲広氏が記録している2528打席であり、記録更新を狙える位置にもありまずは1軍でヒットを打ってもらいたい。
#65 多田野 数人(石川ミリオンスターズ 選手兼任コーチ)
元日本ハム、現在はBCリーグ 石川ミリオンスターズの選手兼任投手コーチ。
高さのある超スローボールが有名。あまりにも山なりすぎるため、テレビ中継の映像ではボールが見えなくなってしまうほど。そして球速は測定不能。
もちろんストライクゾーンを通過すれば審判もストライクをコールするが、キャッチャーが普段構えている高さで捕球しているとボールの判定をされることが多い。キャッチャーが低めに構えた高さで捕球するとストライクの判定が多く、ストライクの判定はキャッチャーが捕球した高さやコースではなく、ホームベース上の打者のストライクゾーンを通過した位置なんだなと再認識させてくれる貴重な教材。
#64 福山 博之(楽天)
楽天の中継ぎ投手、愛称は風貌が北島三郎に似ていることから「サブ」。
DeNA時代は2年目に投手として契約しないことを通告され野手転向を打診されたが、これを断り楽天に投手として入団。
2014年から3年連続で65試合以上に登板するほどのタフさが特徴。
今年も中盤のピンチでの火消し、セットアッパーへのつなぎ役などとフル回転しており、前半戦終了時点で36試合に登板し、驚異の防御率0.00の記録を残していた。
後半戦に突入し自責点のつく失点があったため防御率は0でなくなってしまったが、それでも中継ぎ投手としては別格の防御率を残している。

野手転向を打診されるほどのためフィールディングがうまく、バント処理でダイビングキャッチを行ったり自分の頭の上を超えそうな打球をジャンプして取ったりと、躍動感のある守備をこなす。
また、代走としての出場も経験している。
#63 堂上 直倫(中日)
父の照、兄の剛裕もプロ野球選手。父親は引退後も中日球団職員として勤務しており、まさに球団の栄養費で育った男である。
3球団競合ドラフト1位指名を受け、くじを外した巨人が指名したのが坂本勇人であったためなにかと比較れるツライ立場。
打撃を期待されて入団したはずが守備で覚醒し、内野ならどこでもハイレベルに守れる3球団競合の守備固め&「彼氏にしたい男」チーム内選手間投票1位に君臨。それでいいのか!?
#62 原 俊介 (元巨人)
元巨人、現在は東海大静岡翔洋高校の野球部監督。 ネットニュースの見出しで「元巨人原監督が~」となっているのを、同じく巨人OBでWBC監督も務めた原辰徳氏のことだと思って開いてみると、だいたい彼のことである。
間違いではないのだが、なぜか騙された気がしてしまう。
なお、原俊介と原辰徳に血縁関係は無いそう。
#61 エンジェルベルト・ソト(元中日・DeNA)
元中日、DeNAの助っ人投手。
Mr.ビーンに似ているということで「エンジェルベルト・ソト」で検索すると、Mr.ビーンが一番最初に出て来るが思ったほどは似てない気がする。
2012年オフには中日からDeNAへ移籍をしたが、前後してブランコ、ソーサも中日からDeNAへ移籍したため、同一球団に外国人3選手が同時に移籍するのは初めてとなった。
#60 門田 博光(南海)
不惑の大砲。入団1年目(1970年)に、帰塁の際に右肩を脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていた。
1984年4月14日の日本ハム戦でホームランを打った際のハイタッチでその右肩を脱臼している。
オリックス移籍1年目の1989年9月25日の対ダイエー戦でも、本塁打を打ちホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に再び脱臼。優勝争いしていたシーズン終盤の1週間を棒に振る。(あ、こんときは背番号78じゃん、、、)

#59~#50

#59 平良 拳太郎(巨人→DeNA)
プロ入り4年目の22歳。2016年オフに某投手FAに伴う補償選手として巨人からDeNAに移籍したことで名前が知られるようになった。
某投手が怪我による調整の遅れで3軍にいる頃に1軍先発デビュー、そして初勝利。巨人に移籍した某投手に少なからず負の感情を抱いていたDeNAファンは
「ええのとったわ!」「ど○こいなんていらなかったんや!」などと大騒ぎ。
平良本人にしてみればいい迷惑だと思う。ごめんなさい。

現在は2軍で調整中だが成長著しく徐々にストレートの球速も上がっている。今後が楽しみな選手。
#58 デニス・サファテ(アリゾナ州大~ブルワーズ~アストロズ~オリオールズ~広島~西武~ソフトバンク)
広島でも西武でもいい投手だったけどソフトバンク入りしてさらに大化けしたおっさん。
特に今季は防御率0.93(9/7時点)を誇り、マーク・クルーンが持っていた外国人最多セーブ記録の更新を皮切りに、通算200セーブ達成、4年連続30セーブ、3年連続40セーブ、自身が2016年にマークしたシーズン最多セーブのパ・リーグ記録更新と記録づくめ。
さらにはついこのあいだの9/5に日本プロ野球新記録のシーズン47セーブを記録。いよいよ名球会入りも見えてきた。
#57 古久保 健二(近鉄/現楽天コーチ)
背番号は入団時のもの。その後27に変更された。
1982年ドラフト6位で太成高校から近鉄入団。以来、現役生活18年を近鉄で送る。その後、近鉄を手始めに数球団でのコーチを経て、現在は楽天イーグルスのバッテリーコーチ。
梨田昌孝、有田修三のいわゆる「ありなしコンビ」の後の正捕手を、山下和彦、光山英和と争い、その後も的山哲也、礒部公一とポジション争いを繰り広げた。
バッティングには難ありとされていて、たまに打つとその意外性から「びっくり箱」とも呼ばれた、また、肩が特に強いということでもなかったが、リードに定評があり、現役生活は長かった。
1988年のいわゆる「10.19」では、第1試合最後の打者。ただし、その前の代打、梨田昌孝が起死回生の勝ち越しタイムリーを放った後、そのままマスクを被っている。
2001年には優勝のかかったオリックス戦で、自身の代打に出た北川博敏が「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打、しかもお釣りなし」という大変に劇的な特盛の一発を放っているため、話題になった。なお、古久保本人も、NPBが「名勝負・名場面」を選んだ際に、この北川の一発に投票している。
#56 島野 修(阪急/故人)
V9巨人と真っ向から渡り合い、’70年代後半は最強の名を欲しいままにした阪急ブレーブス。その座を西武に受け渡しつつあった’81年に、日本初の本格的マスコット「ブレービー」は生まれた。マスコットやマスクマンの中身は伏せられるのが普通であるが、ブレービーの中身が島野であることは当時すぐに明らかになった(SSM=平田、ライガー=山田もそうだったな…)。
尚、島野は史上最高の大豊作と呼ばれる’68年ドラフトの巨人1位指名であり、その指名に同年中日入団の星野仙一が「島と星の間違いじゃないんか」と激怒した話は有名。
※ちなみに「56」は島野引退時の背番号、ブレービーの背番号は「100」
#55 福田 永将(中日)
横浜高校時代は現ロッテの涌井とバッテリーを組んだこともあるキャッチャーだったがプロ入り後に内野手に転向。
彼のホームランは大きなフォロースルーからのバット投げから軌道まですべてが美しい。
打席入り時のルーティーンが妙にカクカクしたロボットめいた動きでつい「ウィーンガチャン」と擬音をつけたくなる。
#54 木谷 寿巳(元楽天)
プロ通算40登板2勝3敗、あまり目立った活躍が出来ず引退した投手。

そんな彼だが2軍とはいえ、1イニング5奪三振の記録保持者である。「えっ、1イニングに3奪三振もすればスリーアウトでチェンジじゃないの?」と思われるかもしれないが、振り逃げが成立するとアウトにはならずランナーが1塁に残ったまま記録だけ「三振」となる。
(振り逃げの成立条件について各自でお調べ願います。)

三振、三振(暴投による振り逃げ)、三振、三振(暴投による振り逃げ)、三振という5奪三振の記録が残っている。
#54 カルロス・ペゲーロ(楽天)
2017年前半の楽天イーグルスの快進撃を支えた恐怖の2番打者。ドミニカ共和国出身のパワーヒッター。
怪力が生み出すホームランは、飛距離はもちろん打球スピードも凄まじく、「トラックマン」のデータによると、2017年5月27日のコボパークで記録した場外弾は推定飛距離153.1メートル、打球初速189.5キロ、さらに2017年7月12日ヤフオクドームでの電光掲示板直撃ホームランは、飛距離156.4メートル、打球速度は193.5キロにも達した。これは、今季、現時点で米MLBで計測された最高値のヤンキースのアーロン・ジャッジが記録した最高飛距離は495フィート(約150.1メートル)、打球速度121.1マイル(約194.9キロ)に匹敵するものであり、その怪力ぶりを伺い知ることが出来る。
見た目によらず俊足であり、内野安打数はリーグトップクラスである。
敬虔なクリスチャンであり、コメントの最後は必ず「神様のおかげだね」でしめる。
#53 五十嵐 亮太(ヤクルト→MLB→ソフトバンク)
「ロケットボーイズ」と聞いて、小説ではなくヤクルト石井弘寿・五十嵐亮太の快速セットアッパーコンビを思い浮かべるそこのアナタ!やきう民ですよ!
度重なる怪我を乗り越え、30代後半を迎えた今でもズビズバと剛球を投げ込むイケメン。彼が横浜のマスコットガールと結婚した際、ヤクルトファンは何となく勝ち誇った気分になったものである。
#52 川﨑 宗則(福岡ソフトバンクホークス)
鷹のプリンス。
と言われてたはずだが、アメリカに行ってからキャラが変わった模様。渡米する日本人選手は基本的に通訳を付けるが、彼は通訳を付けずに現地のインタビューに対しても自身の言葉で伝えた。
慣れない環境でメジャーとマイナーを行き来することも多く、ストレスで円形脱毛症が出来たほど。
今年からソフトバンクホークスに復帰したが、キャラはアメリカ時代のままである。
#51 京田 陽太(中日)
故障離脱者続出のチームに残された最後の希望のルーキー。
守備走塁はかなり良いが打撃は…うん、がんばれ。という前評判だったが、打撃が思いのほかよくあれよあれよと1番ショートのレギュラーを勝ち取った。
守備側のスキを突いてひとつふたつ先の塁を狙う走塁センスは既にチームトップレベル。
ホームのナゴヤドームでお笑い芸人ブルゾンちえみのネタ曲「Dirty Work」とともに打席に登場すると「35億ー!」という掛け声が客席からかかるのが恒例。ネタが廃れてそうな来年以降はどうするつもりなのだろうか。
#50 駒田 徳広(巨人→横浜/現高知ファイティングドッグス監督)
チャンスや大舞台に強いクラッチヒッターは数あれど、「満塁男」といえばやはり駒田をおいて他にはいまい。
満塁HR数13本は歴代5位だが、総HR数に対する満塁HRの割合はダントツ1位。満塁での打率も.320強である。
加藤哲『ロッテより弱い』→駒田『バーカ!!』事件、巨人生え抜き初のFA移籍、巨人坂本と肩を並べるほど打席でやる気無さそう、などエピソードに事欠かない選手であった。

#49~#40

#49 ウォーレン・クロマティ(エクスポズ→巨人→ロイヤルズ)
「49」や「42」という忌み数を助っ人に割り振るとは嫌がらせではないのか!と憤り、後にそれらは米国人選手にとってのラッキーナンバーだと知って気恥ずかしい思いをした方、私の他にもきっといるはず (๑´ڡ`๑)
成績・人気・応援歌の歌詞などを総合すると、まちがいなく巨人史上最優良助っ人。当時の東京の晴天率は彼の打棒にかかっていた。彼が4タコだと、土木業者は翌日の作業を休みにしたとかしないとか。
打撃はケチのつけようがないほど素晴らしかったものの、守備はミスというよりも手抜きが目立った。やきうファンがよく使う「緩慢な守備」という言葉は、たぶん彼のプレーが生んだものである。 4割予告宣言、球史に残る乱闘、余興の域を超えたバンドを編成、巨人退団直後に暴露本出版、魁!!クロマティ高校訴訟、独立リーグで監督を務めるが選手から総スカン…エピソード満載なのだが書ききれないので、待て次アノマリー!
#48 ジュリアス(日隈ジュリアス)(ヤクルト)
ヤクルトの2年目左腕、沖縄生まれの日米ハーフ選手。
ルーキーイヤーにファームで1試合投げたところで左肘の骨棘除去手術、再起を目指した今年も5月にトミー・ジョン手術を受けるというヤ戦病院でも頭抜けたエリートであり、ほとんどのヤクルトファンは入団会見の彼しか見たことがない。
トミー・ジョン手術は完治18ヶ月が一般的なので、次に彼を見られるのは2019年4月…春は遠いね…
#47 ブライアン・シュリッター(西武)
今季から西武に入団するや勝利の方程式の一角を担っている。当たり前のようにイニングまたぎをするなど酷使されがちだった牧田にとっての救世主といえよう。
外国人のリリーバーというと速球パワーピッチで三振をガンガン奪うイメージが強いが、シュリッターは奪三振率が低く、ツーシームなどでゴロを量産する典型的な打たせて取る投手。
#46 北川 博敏(阪神→近鉄→オリックス)
埼玉県立大宮東高校で同高初の夏の甲子園出場に貢献後、日本大学を経て1994年ドラフト2位で阪神へ入団。その後、近鉄、オリックスで現役を過ごし、現在はヤクルト二軍コーチ。背番号46は近鉄時代のもの。
近鉄移籍当初までは捕手で、その後打力を生かすために内野手へ転向した。笑みを絶やさないことから「スマイリー」、顔が似ているとして「アンパンマン」と呼ばれ、現役通算18年で1,076安打を記録しているが、そのうちの1本で、記録にも記憶にも残る選手となっている。
その安打は近鉄在籍時、2001年9月26日の対オリックス戦でのものであるが、9回裏5対2で負けていたところ、無死満塁で古久保健二の代打として登場して打った、「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打、しかもお釣りなし」というもの。
「代打逆転満塁サヨナラ本塁打」だけでも相当珍しいが、「釣り銭なしの代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打」はNPB史上現在のところ、この北川の一発のみである。
#45 川井 貴志(ロッテ→楽天)
乾いた菓子、ではなく川井貴志。
千葉ロッテ時代は主に中継ぎ、楽天では先発投手として活躍。

毎年夏場の先発ローテションのやりくりが厳しい時期に1軍に昇格し、5~6イニングを3失点以内に抑えて試合を作るのが役割。
星野監督(当時)から「困った時のボブ」、ファンからは夏場の一時期しか1軍で見かけないことから「セミ」と呼ばれた。

2013年ニコニコ生放送で行われた楽天のビールかけ中継では「ニコ生最高!」とプレミアム会員であることを発言し、「プレミアム川井」の愛称がついた。
2016年に現役を引退し今年からは球団のチーム戦略室(兼打撃投手)に所属。
元プロ野球選手の経験を活かし、トラックマン(レーダー弾道測定器)の解析データをチームメイトに伝えている。
#44 井上 晴哉(ロッテ)
身長180センチ、体重114キロ。球界の日本人最重量選手。出生時の体重は約5,200グラムとすでにビッグサイズ。

女子プロレスラーのアジャ・コングに似ているため「アジャ」と呼ばれていることや、ロッテのお菓子「パイの実」が大好物であるなど、あまりにも野球以外の取材が殺到したため、伊東勤監督が井上を野球に専念させるべくバラエティ色の強い取材を控えるように要望したほど。

西武ライオンズの山川穂高とキャラがかぶるため、本人もかなり意識しているものの今年も思うような成績が残せていない。
このままでは、おかわりのおかわりのおかわりに・・・
#44 ランディ・バース(阪神)
言わずと知れた史上最高の助っ人外国人、2回の三冠王、シーズン最高打率を含め阪神においては神。

上背はそれほどないものの稀代のパワーヒッターで、メジャー時代には「ニューヨークからロスアンゼルスまで飛ばす男」の異名を持つ。

左打者不利な甲子園を、同じ左打者である掛布から流し打ちの極意を学び、長崎の打法を研究し尽くし、日本球界に対応した。
現オクラホマ州上院議員。

モルツ球団で張本が3番を申し渡された時、
「誰が4番を打つんだ?」に対して

「バース」

と言われて「それならしょうがない」と引き下がったのことに、密かに溜飲が下がったやきう民もいたとかいないとか…
#43 小斉 祐輔(ソフトバンク→楽天)
2005年育成ドラフトでソフトバンクに入団、育成出身選手初の一軍初安打と初本塁打を記録している。
しかし一軍定着までとはいかず、一方で二軍では本塁打と打点王のタイトル獲得するなどしたため、「二軍の帝王」と言われた。
楽天へのトレード後も一軍定着出来ずついには育成選手契約になってしまった。

2015年に現役引退し、福岡と仙台でプロ野球選手だったという経歴から「福岡で(仙台名物の)牛タン屋を開く」という目標に向けて現在仙台市内の牛タン専門店「司」で修行中である。

とある現地民いわく、「仙台アノマリー(Persepolis)の打ち上げでこの牛タン専門店で食事をしたことがあるが、アノマリーで勝利したことにより何倍も美味しく感じた」そうな。
#42 山口俊(横浜→巨人)
父親が元力士の谷嵐であることから、どすこいの愛称で呼ばれている。
最速157km/hのストレート、落差のあるフォークを中心にしたスライダー、カーブ、ワンシームなどを操り、ドスコインティライミとも評される独特のファッションセンスを武器とする投手。

09年~13年の5シーズンはクローザーを務め通算111セーブ。
14年以降は先発転向し、16年には5完投を含む11勝を挙げプロ入り初の二けた勝利を達成すると、横浜ベイスターズのエースには君臨せず、涙ながらに巨人へFA移籍した。

華々しく見える成績とは裏腹に、メンタルの弱さがたびたび指摘され、ピンチを背負うと崩れやすく、肝心な場面で打たれる印象が強いためか、横浜ファンの印象はそれほどよくなく、FA宣言時の涙は一部で「ビジネス涙」とも評されている。

また、頭部死球による退場数が最多タイの3回で、試合開始から5球で危険球退場というNPB最短記録保持者。
そのため、対戦相手のファンも選手が壊されるのではないかとひやひやしていたが、2017年7月11日に酔った勢いで病院の扉を壊し現在は出場停止処分となっている。
#41 雄平(ヤクルト)
霊長目ヒト科ゴリラ属。主食はプロテイン。
東北高校時代は投げては最速151km/h、打っては通算36HRをマーク。
メジャーにも注目された逸材であったが、2年後輩のダルビッシュに危うくパシリにされそうになる。

プロでは本格派左腕(ロケットボーイズ4号)として期待されたが、『一場を超える』制球難に悩まされ、強制的に打者転向。

類まれなる身体能力に恵まれており、瞬発的に好成績を残すことがあるが長続きしない。フルスイングが売りであるにもかかわらず、急に思いついたように流し打ちにこだわってみたりして、結果的に調子を崩すケースがよく見受けられる。

ちょっと残念なところも多いんだけど、愛すべきキャラでぼく大好き。
#40 小笠原 満男(鹿島アントラーズ)
鹿島アントラーズ所属の元日本代表MF。
過去6人しか達成していないJ1通算500試合出場を達成。
岩手県盛岡市出身であり、東日本大震災の支援活動を行っている。

やきう的には同姓つながりで小笠原道大(当時巨人、現中日二軍監督)と対談をしたことがあり、チームの主力としての振る舞い方でいろいろ共感する部分があった模様。

(写真はユニフォーム交換をしているので、左が小笠原道大、右が小笠原満男)

#39~#30

#39 デストラーデ(西武ライオンズ)
AKD砲の一角として西武黄金時代を支え、カリブの怪物と言われた伝説的助っ人選手。
NPB初のスイッチヒッターによる本塁打王を達成している。
ホームランを打った時のガッツポーズが抜群にかっこよく、マネした野球少年は数知れず。

阪神とも移籍交渉を行っていたが破断し、89年西武に入団。
当時主力だったバークレオが不振になると、6月から出場。89試合で32本塁打を放った。
90年91年は本塁打と打点の2冠王、92年は本塁打王を獲得し、90年~92年の西武の3年連続日本一に貢献した。

当時4番だった(検閲により削除されました)選手の当時の選手評によると、
「ここぞという場面では打たないが2線級の投手からよく打って打点ホームランを稼ぎ、タイトルを取られた。」とのことである。
#38 森 唯斗(福岡ソフトバンクホークス)
2014年の入団以来今季まで4年連続50試合以上を投げる鉄腕。
黄金時代を謳歌するソフトバンクホークスのブルペンを支え、主に7回か8回に投げるセットアッパー。
クローザーを務めブルペンのまとめ役にもなっている、デニス・サファテ選手と非常に仲が良い。
画像はサファテ選手が通算200セーブを達成した際に贈った直筆の手紙である。
決して達筆とも名文とも言えないかもしれないが、純粋な気持ちが伝わってくるすばらしい手紙である。
しかしサファテ選手が読めるのかどうかは謎である。
#37 渡辺 俊介(ロッテ→新日鐵住金かずさマジック)
球界絶滅危惧種のアンダースロー投手。
世界一低い(地上約3cm)とも言われるアンダースローのため、手がマウンドに触れてワイルドピッチをしてしまったこともある。

2009年シーズンはQS(6回3失点以内)を13回達成するものの、味方打線からの援護に恵まれずシーズンを3勝13敗の借金10で終えた。
好投しているのに味方打線が得点してくれない無援護ならぬ「ムエンゴ」が広く知られだしたのもこの頃か。
現在は社会人時代の古巣の流れをくむ、新日鐵住金かずさマジックで投手コーチ兼選手を務めている。
#36 細山田 武史(横浜/SB/トヨタ自動車)
2008年ドラフト4位で横浜入団。
大矢監督に期待され、ルーキーイヤーに88試合出場。愛くるしい笑顔とテーマ曲の『兄弟船』(鳥羽一郎)は、暗黒時代の横浜スタジアム名物となった。
しかし、監督交代後は出場機会が激減。2012年の契約更改では野球協約の減額制限を超える大幅減俸を受け入れ、「税金を払わないといけないし、これから食事は松屋か吉野家にする」との発言が紙面を賑わした。結局翌2013年にDeNAから解雇される。

その後ソフトバンクと育成契約するも1軍試合出場は2年間で11試合にとどまり、2度めの戦力外通告を受けプロ引退。

しかし、彼の野球人生はまだまだ続く。早稲田大学の先輩である佐竹投手に誘われトヨタ自動車に加入すると、2016年の都市対抗野球でチームを初優勝に導く。そして2017年、アジア選手権に出場する社会人侍ジャパンの代表に選出された。

DeNA→ソフトバンク→トヨタ自動車という経歴だけ見ると超勝ち組。
#36 有吉 優樹(ロッテ)
東京情報大学を卒業後、九州三菱自動車で活躍し野球の傍ら営業マンをやっていた。
ルーキーながら52試合に登板し、2勝5敗16ホールド、防御率2.92(9/27現在)とロッテ中継ぎ投手陣を支える大車輪の活躍を見せている。
彼がいなかったら今年のロッテはどうなっていたのか想像もしたくないロッテファンが大勢いるはず。

ちなみに入場曲は猿岩石の「白い雲のように」で、アラフォーおじさんたちは思わず口ずさんでしまうが、選曲の理由は「涌井さんです」ということで、本人はこの曲を知らなかった様子。
なお、同点に追いつかれたり、逆転されたりなどの登板があった場合には「有吉反省会」と一部のファンからヤジられてたりするとかしないとか
#35 松井 秀喜(巨人・ヤンキース他)
巨人とヤンキースでの背番号55のイメージの強いゴジラ松井だが、晩年のレイズ時代(後に引退)は背番号35だったことを覚えている人は意外と少ないのではないだろうか。

巨人-ヤンキース-エンゼルス-アスレチックスと一貫して背番号55を背負ってきたが、レイズでは空いておらず(譲れられる話もあったそうだが)背番号35を選択した。選んだ理由として「5」という数字を残したかったのと師匠である長嶋茂雄氏の背番号「3」を頂いたとしている。

NPB通算10年で332本、MLB通算10年で175本、合計507本のホームランを打っているが、日本であと数本打ってもらえなかっただろうか。
#34 金田 正一(国鉄→巨人→ロッテ監督)
言わずと知れた球界の天皇。

通算400勝をはじめとする数々の記録とともに、「俺の球速は180km」・「バレンティンはヘッポコ」等の語録を数多く残している。
金田退団後の燕34番は大成しないことが多く、永久欠番にしなかったことによる「金田の呪い」とも噂された。だいたい20年の現役生活のうち国鉄で15年過ごしてるんだから、少しは燕OB感も出してほしいものだ。
#33 祖父江 大輔(中日)
なかなかの男前だがなぜか女性人気はそれほどでも。過去3年間でコンスタントに30~50登板するもまったく勝ち運に恵まれなかったが、ことし142戦目でついにプロ初勝利をあげた。
祖父江の一族が経営する企業はキャラメルが主力商品であり、阪神の応援商品「阪神タイガースをなめたらあかん!」キャラメルの製造元でもある。
「祖父江選手プロデュース “キャラメル王子のチュロソフト~チュロス&ソフトクリーム キャラメルソースがけ”」という球場飯も登場したが、決して王子キャラではない
#32 高城 俊人(DeNA)
高卒プロ入り6年目。
キャプテン筒香に「高城が女性だったら結婚したい」と言われてみたり、投手の三浦大輔や(検閲削除)選手に「自分が先発の試合はキャッチャー高城がいい」と言わせたり、年齢問わず選手に愛される選手。

三浦の引退試合、最後の打者との対戦時。
高城「ぜんぎゅうぢょっぎゅうでいぎばじょう(号泣)」
20歳差のバッテリーは親子の様で微笑ましかったです、ほんと。

今年、3試合連続3塁打という謎記録を達成した。日本記録はなんとミスター長嶋茂雄の4試合連続。
ミスターに並ぶ記録がかかった試合、一部のファンの熱い期待を一身に受けたがあっさりと代打を出されて終了。これもまたご愛敬。

野球以外の部分でも、入場曲を筒香に勝手に変えられて球場全体が微妙な空気になってみたり、ファン感謝デーで番長のコスプレをして番長に怒られてみたり。
なにかと話題を振りまいてくれるので、負けが続いてモチベーション下がり放題のファンの一時の清涼剤となっている。

強肩強打のすごい奴~、という応援歌を歌っていてむなしくならない様、来年こそは念願の正捕手を。ファンはあなたが19歳の時からずっと見守っているのです。
#31 真中 満(ヤクルト/2015-2017ヤクルト監督)
打てよ~まなかはしれ~狙え右中間!左中間!気合い~込めてと~ばせ~見せろ自慢のパンチ力~!

96年に入団後、16年間ヤクルト一筋の元 イケメン 外野手。ここ大事。
「キャッチャー・センター・セカンド~どこでも守れる~♪」でおなじみの飯田哲也からセンターのポジションを2年目にして奪取、97年からはセンター・ライトどちらかでレギュラー出場するように。

ライトスタンドから見れた、守備待機中にフリフリしてアピールするぷりんとしたお尻形の良さが、個人的には今でも譲れないマイベスト野球尻。
今はつきたての大福餅のようなぷりぷり肌、なんならバファローズポンタよりもポンタらしい体型でスワローズポンタを名乗っていいくらいのまんまるおじさんだが、現役時代は池山・高津と並ぶ97年3大イケメンヤクルト選手(個人の感想です)として、それなりにキャーキャー言われていた。 イケメン 。ここ大事なので2回いいm(ry

2008年に引退後、コーチ・2軍監督を経て、2015年から一軍監督に就任。
ドラフト会議での「勘違いガッツポーズ」は、やきう好きにはあまりに有名なシーン。
「平成27年度ゆうもあ大賞」なる謎賞まで受賞。

初年度はセリーグ優勝に導くも、16-17年と”ヤ戦病院”と揶揄される故障者の多さにチーム成績が低迷。

10/4の最終戦をもって監督退任。
まんなかまん。悲しい。 また、いつか、グランドに戻ってきてほしい。
#30 大嶺 祐太(ロッテ)
2006年のドラフト1位。
ドラフト10日前にボビー・バレンタインがテレビで大嶺を見て気に入り強行指名。ソフトバンクとのくじ引きの結果、ロッテが交渉権を獲得する。
当初は相思相愛であったソフトバンクからの指名ではなかったため浪人するつもりであったが、
バレンタイン監督の石垣島への来島や、ロッテのキャンプ地を石垣島へ変更するなど説得を行ったことで入団を決断した。

同じくロッテに所属する大嶺翔太は実弟で、祖父母に育てられる複雑な家庭環境だったが、登板後には祖父母への連絡を日課としており 感謝の気持ちを伝えることを忘れない。
2015年5月10日の西武戦で大嶺兄弟は揃ってお立ち台に上る活躍をみせ、 さらにこの日は母の日であったため、石垣島にいる祖母へ最高の親孝行を果たした。
ロッテの兄弟プレイヤーといえば、レロン・リーとレオン・リーのレジェンドブラザーズがいるが、 彼らのように兄弟そろって大活躍してくれることをファンは願っています。

#29~#20

#29 奥田 民生(ユニコーン/サンフジンズ)
ソロアーティストとして(ソロ名義初のアルバムは「29」)、ユニコーンのボーカルとして著名、そしてサンフジンズのカイ・ギョーイであり、自他共に認める広島東洋カープファンです。

2004年に旧広島市民球場にて初めてにして最後のコンサートを実施、そして2015年にはマツダスタジアムで会場以来初めてのコンサートを行ってます。どちらも映像化されているので是非みよう。
もちろん始球式にも登板、彼のレプリカユニフォームの背番号は082(広島市の市外局番)。ユニコーンのツアーグッズでカープかつが売られたという過去も。

なお無駄な知識として、ユニコーンメンバーのカープファン率80%、サンフジンズのカープファン率は66.6%となっております。
#28 園川 一美(ロッテ)
九州学院高校から日本体育大学を経て、1985年ドラフト2位でロッテに入団した左腕投手。ロッテ一筋実働14年、376試合登板(うち先発247試合)通算76勝115敗2セーブ。通算防御率4.32。

まあなんと申しますか、先発して5回1/3で5失点的なイメージの投手で(6回4失点ならQS扱い)、タイトルとは縁がありませんでしたが、1980年代後半から90年代のロッテを支えた投手の1人。 妙に記憶に残る選手で、エピソードは本人に責任のないものも含めて数多くありますのでいくつか列挙してみます。
現在は地元に戻り、スポーツオーソリティー八代店に勤務されているそうです。

・現在のところNPB最後の日没サスペンデッドゲームに登板(1987年)
・先発完投して13失点。もちろん敗戦投手(1987年)。
・いわゆる「10.19」の対近鉄戦、ダブルヘッダー第2試合に登板(1988年)
・規定投球回数投げて防御率6点台。なお奪三振率はパリーグ1位(1989年)
・近鉄のジム・トレーバー相手に内角攻めの末、激昂したトレーバーに追い回されて暴行を受ける(1991年)。
・イチローにNPB史上初のシーズン200本目のヒットを打たれる。園川本人は「自分一人で200本打たれたわけではない」とのコメント(1994年)
・開幕投手に起用され、対戦相手のダイエー王監督から「開幕投手には格というものがあるだろう」と激怒される。なお、本来の開幕投手は伊良部秀輝のはずだったが、故障のための代役であった(1996年)
・引退試合も引退セレモニーも終わったのに、なぜかその後の試合で1イニング投げる(1999年)
引退セレモニー終わった後にスタメン出場した初芝清といい、なんでかロッテはこのパターンが…。
#27 古田 敦也(ヤクルト)
90年代のヤクルト黄金時代を支えた史上屈指の名捕手。
通算盗塁阻止率1位の.462を誇る強肩と、ボールと判定されうる微妙な球をストライクに見せるキャッチング技術を持っていた。
打撃については入団時全く期待されていなかったが、新人時代に捕手視点で落合博満の打撃を研究するなどして向上。
捕手として歴代最多の8回の打率3割を記録し首位打者も1度獲得している。

現在は解説者として活躍しており、試合の流れをズバズバあてる捕手ならではの鋭いコメントと、代表戦で日本の選手がいいプレーをした際の「オッケーイ!」などという居酒屋のオヤジのようなコメントのバランスが楽しまれている。
一方でまずいプレーをした際に「チッ」と舌打ちした音声が放送されてしまうなど、どちらかというと居酒屋のオヤジ寄りの性格であると考えられ、監督は向いてなさそうな印象であり、ヤクルトファンを落胆させている。
#26 千葉ロッテマリーンズ
背番号「26」は千葉ロッテマリーンズの準永久欠番である。
球団創設2試合目の東北楽天ゴールデンイーグルスとの試合を「26-0」で勝利した記念に付けられた
ファンのための背番号(ベンチ入り選手が25人のため、それに次ぐ26番目の戦士)としている。

2005年の日本シリーズでは阪神タイガースを相手に一度もリードを許すことなく、4連勝するほどの圧倒的な強さが印象に残っている野球ファンの方も多いだろう。
しかしこの年のレギュラーシーズンは2位で終えており、プレーオフ制度で勝ち抜いたためパ・リーグ優勝という形である。
(現在のクライマックスシリーズは、リーグ優勝とは別扱いで日本シリーズ出場権をかけた戦いという位置づけである。)

ロッテがレギュラーシーズンを勝率1位で終えたのは1974年とNPBでは一番遠ざかっており、次点がオリックスの1996年、横浜の1998年ということを考えると飛び抜けてる感が伝わるだろうか。
来シーズンは井口新監督がほぼ決定となっているが、チームの建て直しに期待したい。
#25 吹石 徳一(近鉄)
福山雅治の義理のお父さん。余談だが、吹石一恵が福山雅治と結婚した2015/9/28に全国5000万のフッキーファンがやけ酒をあおったため、翌日の日経平均株価が大暴落したことは「吹石ショック」としてあまりにも有名。

1974年に近鉄からドラフト4位指名を受けて以来近鉄一筋。1979年、広島との日本シリーズ第7戦9回裏、いわゆる「江夏の21球」に代走として出場した。

引退後は主にスカウトとしてプロに関わる。2017年からはアマ時代の古巣、日本新薬で監督を務め、都市対抗野球出場を果たした。
#24 英智(中日)
読みはひでのり。レギュラーをとったと言える年がないにも関わらず広く愛された外野手。
高性能な身体能力を生かした代走・守備固めでの活躍が多かったが、稀にあるヒロインでは「僕のベースボールスタイルは48個ある」などと意味不明なコメントを述べ聴衆を英智ワールドに引きずり込む。
外野からのレーザービーム返球が売りのひとつ。自身の引退セレモニーでもホームベース付近から遠投を行い、1投目は右ポール直撃、2投目はライトスタンド中段に放り込み強肩健在を見せつけつつ、「引退を決めたのはハンカチ落としスタイル」とまたも意味不明なコメント。
最後まで英智は英智だった。
#23 吉田 義男(阪神)
阪神唯一の日本一監督にして永久欠番、歴代の遊撃手を語る上で欠かせない選手。
「捕るが早いか投げるが早いか」などと評された守備が有名であるが
粘り強く三振が少ないことや通算1864安打を記録しているなど打撃でも活躍した。
3度の監督を務めた後、フランスにわたり代表監督を務めたことから「ムッシュ」の愛称でも呼ばれる。
ラジオ解説における口癖は「(実況のフリに返して)そうですぅ!」と「先取得点が大事ですねぇ」
#23 塀内 久雄(ロッテ)
元日本ハムのシールバックから初打席初本塁打を放ち華々しいデビューを飾るも、肝心なところでエラーやゲッツーをやらかし解説の倉持明氏に酷評されたり、打撃練習の打球が直撃して頭部骨折したり、三塁走者として生還しようとしたらサブローの折れたバットが顔面に直撃して流血しながらホームインしたりと暗黒の象徴だった彼に転機が訪れたのが2010年。

この年入団した金泰均に背番号52を譲るため16という野手っぽくない背番号を背負うことになった塀内。主に金泰均の守備固めやピンチバンターなどで全試合ベンチ入りし八面六臂の活躍で下克上に貢献。ナゴヤドームでの日本シリーズ第7戦、ファーストとして日本一のウィニングボールを掴みキャリアの最高潮を迎える。ちなみに2005年日本シリーズ第4戦も守備固めとして甲子園のセカンド上で日本一の瞬間(33-4の完成)を経験しており、変なところで持っている男である。

2011年、マクローリーとかいう謎外国人に背番号16を譲るため背番号23へと一年で再変更。その後は金泰均の離脱、退団とともに出場機会も減少。地元愛媛で行われた2012年ファーム日本選手権でMVPを獲得し愛媛新聞の一面を飾るなどの地味な活躍を残しながら2014年に惜しまれつつ引退。

通算本塁打は9本だが、打った相手がシールバック、松坂、岩隈、武田久、金子千尋(2本)、巽、グウィン、福盛と何故か好投手が多いのがまた不思議なところ。
引退後はマリーンズアカデミーのコーチに就任。未来のマリーンズ戦士の育成という重大な責務を担う。
#22 高津 臣吾(ヤクルト)
広島県出身、野村監督黄金期に君臨した、サイドスローから繰り出されるシンカーが決め球のヤクルト守護神。
現・ヤクルト2軍監督。

大魔神佐々木とのセーブ王争いを初めとし、リーグ優勝&日本シリーズで合計4度の胴上げ投手(日本シリーズ胴上げ最多は4回連続の高橋一三)、日米通算300セーブと華やかな成績を残す。一方で、2003年に公使したFA権でのメジャー挑戦を皮切りに、アメリカ・韓国・台湾でのプレーも経験、独立リーグ時代は選手兼監督も経験した茶髪のチャラい見た目とは裏腹の苦労人。

97年三大イケメン(個人の主張です)。まんなかマンと違って今も端正な(個人の主張です)マスク。

01年神宮で決めた優勝ガッツポーズに紙テープを投げ込んだあの日の熱い想いを胸に、いつか神宮で采配を振るってくれるのを楽しみに、そしてもうちょっとはぼろぼろ戸田球場をなんとかしてほしい。
#22 高崎 健太郎(DeNA)
先日(2017年10月5日)、引退を発表。
球団が「横浜DeNAベイスターズ」に再編された年の開幕投手。
球団が色々な意味で苦しかった時期を乗り越えてきたひとり。

11年間、お疲れ様でした。来年以降、別の場で活躍できますように。
#21 西 勇輝(オリックス)
ソフトバンク小久保選手の引退試合でノーヒットノーランというとんでもないことを達成した投手。
当然試合後には小久保選手の引退セレモニーが予定されており花束は用意されていただろうが、まさかノーヒットノーランでも花束が必要になるとは誰が思っただろうか。

自身の引退試合が西によるノーヒットノーランで終わってしまった小久保ではあったが、プレミア12の日本代表監督として西を日本代表として選出しておりそのあたりはあまり気にしていないのかもしれない。
#20 白井 一行(審判)
日本の野球審判の一人。
ストライク時の発声が「ストラーイク」ではなく「アアァイ!」と高音で発生するのが特徴。
テレビやラジオの野球中継で映像がなくてもこの声で今日の球審が誰か分かる。
あまりの奇声にWBC2017で球審を務めた際、オーストラリアチームの公式Twitterに取り上げられ世界デビュー。
(https://twitter.com/TeamAusBaseball/status/837976620023439360)

目下気になるところは「打者も捕手もこの奇声をうるさいと思わないのか」である。

#19~#10

#19 藤浪 晋太郎(阪神)
阪神の投手。高卒から3年連続二桁勝利をして将来を嘱望されていた右腕。もともと制球に難があり打者に球をあてがちな投手だったが、2017年、ついにその才能が開花。59投球回で8個の死球を出すという偉業を成し遂げている。
どうにかその才能を手放して普通の投手になって戻ってきてください。
#18 桑田 真澄(巨人)
言わずと知れたPL学園・KKコンビのひとりであり、1990年代の巨人を支えた先発の柱。
野球に対する真摯な態度・引退後も変わらぬ研究熱心さと、ドラフト時のあれこれ・借金・野球賭博などのダーティーなイメージが両極端すぎて一体どういう人物なのかはかりかねるところがある。
(折しもNumber最新号に本人によるドラフトの「真実」告白記事が掲載されています。ご興味があればどうぞ)

日本のアマチュア野球指導について度々苦言を呈しており、体罰・投げ込みなどをやめるべきと語るところをみると、中高時代にさぞ辛い思いをしたんやろな…と思わされる。
引退後早大入学で話題を呼んだが、その後も院に進み野球についての研究を重ね、現在は東京大学生命環境科学系 身体運動科学研究室に所属し、投打のフォーム解析を学び続けている。
#17 山田 久志(阪急)
言わずと知れた日本球界最強のサブマリン。
当初はストレートの力押しのピッチングでしたが、世界の王にサヨナラ3ランを打たれたり、膝の故障で調子を落とした後、決め球をシンカーに。
そのシンカーがあまりに早すぎて、ライバルであった門田が、「あれはシンカーにならなかった」と賞賛。3年連続MVP、12年連続開幕投手など阪急黄金期をささえた。
通算勝利数284勝はアンダースロー投手では最多勝記録。
ちなみに本人は「オーバースローの体勢のまま上半身を斜めにしただけであって、純然たるアンダースローではない」とのこと。
#17 塩見 貴洋(楽天)
FAで岸孝之の加入により入団時から付けていた背番号11を譲り、今年から背番号17を付ける。
田中将大、前田健太、坂本勇人などを始めとする88年生まれ世代の1人。
ルーキーイヤーに9勝を挙げ、優秀新人賞を受賞する(新人王は牧田和久)。

楽天の左腕エースとして2桁勝利が期待されたが、勝ち星が伸び悩み2桁には届かず。
今年は椎間板ヘルニアを患い交流戦から復帰となったが、再発したらもう選手生命は終わりと言われている。
そのため、予告先発が発表済みの先発当日に腰痛のため急遽先発変更が発生したりと、チームに迷惑をかけてしまっていることも多い。
しかし先程まで行われた、パ・リーグCSファイナルシリーズ1戦目に登板し、6回1失点の好投で勝ち投手となり見事チームの期待に答えた。

楽天の初優勝時の2013年シーズンは、怪我のため一度も1軍で投げることが出来ずに終わってしまった。
そんな経緯もありポストシーズンへの思いは人一倍強い。
#16 又吉 克樹(中日)
先発すれば完封、中継ぎをさせればセットアッパーをこなす高性能のため、又吉が3人…いや12人いればなぁと願う中日ファンは多い。

芥川賞作家兼芸人・ピース又吉直樹と一字違いの氏名を持つ縁から、芸人又吉がMCを務めるスポーツニュース番組で度々親交を深め、ついに自身の出場したオールスター当日に番組生出演&MC代行を果たしたが、緊張のせいかライアン小川とご飯を食べに行ったことを2回も話していた。大事なことだから仕方ないね。

ちなみに画像は選手又吉のツイッターアイコンだが、芸人又吉のほうが目立っておりこの上なくまぎらわしい。
#15 岡林 洋一(ヤクルト)
「ヤクルト史上最高の投手は?」との問いに、「’92年の岡林」と答えるヤクルトファンは間違いなくガチ。
’92年は先発・抑えとフル回転。シーズン後半にはリリーフ登板なのに7回→延長15回の9イニングを投げさせられるなど、常軌を逸した酷使ぶり。そのせいで、伊藤智仁同様煌めきの時は短かった。野村このやろう。
同年の日本シリーズにおける延長戦を含む3完投は、「岡林の430球」として「江夏の21球」や「上野の413球」と並び称されるべきである。べきである。

大事なことなので二度言いましたよ。
#14 則本 昂大(楽天)
平成生まれのプロ野球選手での最多勝投手。
1年目に15勝8敗防御率3.34で新人王に輝くと、以降毎年2桁勝利と200奪三振を重ね今年で4年連続の最多奪三振となった。

平成生まれの最多勝投手ということではあるが、もちろん高校時代にドラフト指名された選手が有利ではあるが則本は大学時代に指名されている。
プロ通算5年で65勝、1年あたり13勝というハイペースで勝ち星を重ね、ついに唐川に並びプロ4年間の差を縮めた。
そんな則本でさえ現在のペースであと10年勝ち続けても200勝にはまだ届かないと考えると、200勝投手の凄さを感じる。

◆平成生まれの勝利数ランキング◆
カッコ内は今年の勝利数
唐川(平成1年7月生) 65(+5)
則本(平成2年12月生) 65(+15)
西(平成2年11月生) 64(+5)
菅野(平成1年10月生) 61(+17)
菊池(平成3年6月生) 59(+16)
#13 石井 裕也(日本ハム)
先天性の難聴であり、左耳は全く聞こえず、右耳も補聴器でかすかに聴こえる程度というハンデを抱えつつ中継ぎ投手として活躍。(2017シーズンは8登板に終わってしまった)
マウンド上では集中するため補聴器をオフにし、静寂の中で三振を奪っていく投球から「サイレントK」というなんともクールな異名を持つ。
また、杉谷拳士などやかましい選手の側でも補聴器をオフにするという。
#12 マレーロ(オリックス)
今年9月にプロ野球史通算第10万号のメモリアルホームランを打ち、賞金100万円を手にした。同じ試合でチームメンバーのT-岡田が9万9999本目のホームランを打っており、リーチがかかった中での達成であった。
しかし実はこのマレーロ、6月の試合で来日初ホームランを打ちながらホームベースを踏み忘れ、キャッチャー松井雅のアピールで記録取り消し(三塁打扱い)となった経緯があり、仮にこの踏み忘れがなければT-岡田が10万号達成者となるはずであった。

約4ヶ月をかけた伏線回収、実にお見事。
賞金100万円についてはT-岡田、踏み忘れを指摘した松井雅も取り分を要求するコメントを出している。
#11 小笠原慎之介(中日)
野球選手に限らず、プロスポーツ選手の体調管理(靭帯含む)は日々の結果だけでなく、選手生命の長さ自体にも影響してくることは、みなさんご存じの通り。
個人でフィジカルトレーナーをつけたり、素敵な奥様()がきちんと栄養バランスを考えた食事を作ってくれたり。
でも、若い選手は、なかなかそこまで資金面でも時間面でもやりくりできず、時に謎の食事に進化することも・・・

今回は、その中でも特異な進化を遂げている中日・小笠原選手のある日の食事メニューをご紹介。


・・・パンですね。
・・・そして、白米ですね。

奇跡のコラボ、炭水化物on炭水化物!
お好み焼き定食なんてあまい組み合わせではなく、純粋に炭水化物に炭水化物を重ねて食べるという、豪快以外の何物でもない食事!
世の”炭水化物ダイエット”なんて目もくれず、究極の独自進化と言える食事メニューではないでしょうか。

しかし、何事にもチャレンジを惜しまないやきうチームメンバー、これを食べてみました。が、、、、

「パンとご飯が全くマリアージュしないまま口の中で暴れている」

と大絶賛でした!
※なお、某メンバーがたまたま自分用の手土産に買っていたネギ味噌ダレを付けたところ、大変おいしい食べ物になりました 。

是非、皆様も一度おたメシあれ。
#10 戸柱 恭孝(DeNA横浜ベイスターズ)
横浜DeNAベイスターズの2年目捕手。
昨年ルーキーながら開幕からスタメン捕手で起用され活躍、更に大洋ホエールズの復刻ユニフォームを着用して試合に出たところ余りの違和感のなさに新人ながら『大洋戦士』と呼ばれ人気が高まった。

キャッチャーフライを取るのが下手なのと打率が低いのが課題だったが、今年も打率は.214と低いものの得点圏打率は.316と高い。
昨年は打点23だったのに対し、今年は打点52と謎の絶対打点稼ぐマンとしてチームに貢献した。

数年前までDeNAは『(捕手の成績が悪すぎて)正捕手がいない』と言われていたが、今は戸柱、高城、嶺井と三者三様に活躍する捕手が現れ『(それぞれ皆良くて)正捕手がいない』という状態になり、横浜正捕手大戦は今も続いている。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/横浜正捕手大戦

#9~#0

#9 ステフェン・ロメロ(オリックス・バファローズ)
シアトルマリナーズを自由契約後オリックスにきた今期チームの神。開幕3連敗したもののそこからそこからロメロは4試合連続弾でチームを連勝に導き救世主となり、オリックスの快進撃はそこから始まった。
が、プレー中のケガで離脱。交流戦で無理矢理復帰するまでに8勝22敗していたチームがそれを機に6連勝し、ロメロ効果は誰しも認める事となった。
ソフトバンク絶対守護神サファテから打ったサヨナラホームランを含め今期3本のサヨナラ弾で勝負強さも見せつけ、オリックス初の外国人選手との3年契約を結び、来年も4番としてチームの牽引を期待されている。
#9 丸 佳浩(広島東洋カープ)
ここ数年の広島東洋カープ躍進の立役者の一人。 今や不動の3番・センター丸佳浩選手をご紹介します。

誕生日はマエケンと1年違いの1989年4月11日。プロ入り5年目23歳を目前に結婚した奥様とは中1から10年付き合っていたという一途っぷり。
千葉経大付属高校出身で、2年時夏・3年時春に甲子園を経験。 2年時は野手、3年時は投手として出場するも早い段階で敗退。ドラフト3位でカープに入団したのは2008年。 野手としての能力を買われてのことでした。

同年の菊池涼介のように面白い部分を取り上げられる機会が今では少ないけれど、2~3年目あたりは「顔でかいキャラ」での売り出しを目論見、実寸大の顔がプリントされたTシャツを売り出すなど……うん、まぁ本日の画像で実態を是非確かめてくださいね☆

今年はタイとはいえ最多安打。 三打席連続本塁打という派手な活躍も見せました。
11月まで言いたくなかったけれど…「来年も活躍する姿、今から楽しみです」


#8 今江 年晶(楽天)
PL高校→千葉ロッテマリーンズ(2002-2015)→東北楽天ゴールデンイーグルス(2016-)
本名:今江敏晃 2017年に登録名を変更。 読みはどちらも「いまえ・としあき」。
華麗な打撃に目を奪われがちだが、3塁を守る姿も印象的。 2005年から2008年まで、4年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。「ゴリ」の愛称で親しまれている。
2009年、ロッテのボビー・バレンタイン監督が、西村徳文コーチにスタメン3塁手を「ゴリ」と伝えたが、聞き間違いにより堀(ほり)幸一選手がスタメンとなる珍事が起こった。2016年に移籍した楽天の梨田監督も「ゴリ」と呼んでいたようである。(https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/5948.html
2017年は7月の試合中の怪我に伴う手術により、1軍での出場は多くはなかったが、10月24日のクライマックスシリーズ第4戦ではセンターへのヒットを放った。
#8 高田 繁(巨人)
背番号8は現役時代のもの。現在は横浜DeNAベイスターズゼネラルマネージャー。
浪商高校から明治大学を経て、1967年ドラフト1位で巨人に入団。
翌1968年にルーキーながら左翼手のポジションを獲得し、新人王。
以後、現役通算13年を巨人で過ごし、9連覇を支える1人となった。

プレー面では大学時代中堅手であったが(なお高校時代は投手経験もある)、巨人入団当初から左翼手にコンバートされていきなりレギュラーを獲得した。左翼手として、「壁際の魔術師」と呼ばれ、フェンスに当たったボールがどこに跳ね返ってくるかを読んで打者走者を2塁で刺殺するのが得意であり、そのため2塁打となりそうなコースのヒットを放った打者が2塁を諦めて単打で留めてしまう例が多かった。
また、クッションボールの処理にとどまらず、守備範囲が広く強肩で、かつ、打者と投手の組み合わせから打球を予測して守備位置を事前に変更するなどの読みも的確であった。3塁線に強烈な、明らかな2塁打コースの打球を放った田淵幸一を楽に2塁で刺してしまった有名な話があるが、後で田淵曰く「いくら自分が足が遅いとはいえ…あれで高田さんに逆らうのはやめようと思った」のだそうである(ちなみにこのとき三塁手だった長嶋茂雄がファールを審判にアピールしていたが、2塁で田淵がアウトになった後、やっぱりフェアだ、アウトアウト、とアピールし始めた、との話がある)。
その後、長嶋茂雄の引退もあり、珍しいことに左翼手から三塁手へ、という守備のコンバートを受けたが、ここでも好守を見せて、コンバート初年にいきなりダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を獲得している。なお、現在のところ、外野手、内野手双方でダイヤモンドグラブ賞(あるいはゴールデングラブ賞)を獲得したのは高田が初めてであり(当然、外野手→内野手の順で獲得したのも初めて)、この後には西村徳文(内野手→外野手の順)、稲葉篤紀(外野手→内野手の順)の2名が外野手・内野手双方で受賞している。

一方、打撃はとにかく引っ張り専門で、やたらとレフト方向にファールが多く、レフト線への強烈な打球のファールが「高田ファール」などと呼ばれていた。
35歳で引退したが、その引退の理由は、イメージと捕球位置との誤差が20cmぐらい出るようになり、プロとしてこれでは失格、というものである。
実働13年、通算1,512試合出場、1,384安打。新人王の他、ベストナイン4回、ダイヤモンドグラブ賞6回(外野手として4回、内野手として2回)、日本シリーズMVP1回。

引退後は、解説者の他、日本ハム監督、巨人コーチ、巨人二軍監督、日本ハムGM、ヤクルト監督などを歴任している。

さて、高田繁は、学業成績優秀であり、人当たりも良く、紳士的な外見である。ダルビッシュ有の母親が現役時代の高田の熱烈なファンで、ために日本ハムがダルビッシュを指名した際の挨拶に日本ハムGMとして最初に出向いて、以降のダルビッシュの入団交渉をスムーズに進めた、との話があるがそれはよく理解できる。
しかし、いかにも温厚そうではあるが、高田は実は相当に気も強い武闘派でもある。
張本勲が巨人に移籍してきた際、浪商の5学年先輩でもある張本に対し、自分が巨人の先輩である、という理由でタメ口をきいていた、という話があるがこんなもの序の口である。
明治大学1年後輩の、あの星野仙一は「高田さんが温厚?本当の高田さんを知らないだけだよ」と、笑いながら話しているが、星野仙一が頭が上がらない人物の1人が高田繁である。
また、明治大学野球部総監督の島岡御大こと、島岡吉郎が殴らなかった教え子2人のうち1人であるが、その2人とは高田と星野である。
島岡御大は、星野は殴ると理屈をこねて面倒臭そうだったから殴らなかったのに対し、高田は優等生で何であれ隙がなかったから殴れなかった、と話しているそうであるが、実際のところ、高田を殴るとただでは済まないと思ったからではないか、との説もある。
根本陸夫が旧制日大三中・法政大学で一緒だった関根潤三を評して「関根だけは絶対に怒らせてはいけない」と語ったそうであるが、星野仙一も、高田にだけは絶対に逆らってはならない、と思ったのではなかろうか。
#7 福本 豊(阪急ブレーブス)
通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時はMLB記録も超えた)で、「世界の福本」 「世界の盗塁王」の異名を持つ。
昭和の選手らしく逸話について枚挙にいとまがない。入団前本人はスカウトが自分に興味がないと思っていたことからドラフトに指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという。

NPB唯一の3桁盗塁(106)による盗塁王とMVP同時受賞!それから13年連続盗塁王などで阪急黄金期を支えた。国民栄誉賞の打診を「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる(全国紙面では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)」と固辞した話はあまりに有名とともに福本の人柄をあらわしている。2500安打1065盗塁等を残し、3塁打については当分塗り替えられないと思われる。 

上田利治監督が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。
#6 大村 直之(近鉄→ソフトバンク→オリックス)
背番号はオリックス時代のもの。70→7→6と変更された。
兵庫・育英高校からドラフト3位で近鉄入団。近鉄消滅問題で揺れた2004年のオフ、FAでソフトバンクへ移籍。つまり、近鉄からFA移籍した最後の選手である。その後、オリックスへトレードで移籍し、2010年オフ自由契約。
ドラフト指名は、1993年夏の甲子園のビデオを見た当時の近鉄監督・鈴木啓示がその根性に目を留め、獲得を進言したからとされる。なお、鈴木は大村の高校の先輩でもある。
俊足巧打の外野手として活躍し、実働17年、通算1,789試合出場、1,865安打。最多安打のタイトル獲得の他、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回獲得、という名選手なのに、そういやコーチとか解説者とか、引退後の話聞かないなあ、と思っていたら、なんと家族でオーストラリアへ移住していたとのことであり、下記、2015年1月28日の岡島秀樹のブログでその姿が紹介された。
https://ameblo.jp/okajima-37/entry-11982586828.html
#6 多村 仁志(横浜→ソフトバンク→DeNA→中日)
かつて横浜が誇った右の大砲。 2001年のキャンプで臨時コーチの落合から神主打法を伝授され、強靭なリストを生かした広角打法で2004年には3割40本100打点を記録。 また、抜群の身体能力を誇り、金城や小池と共に鉄壁の外野守備を形成した。
5ツール(打撃技術、パワー、足、守備、肩)にファッションセンスを兼ね備えた選手を目指すとして6TOOLSを自称しており、本人の公式サイト名などに使用された。背番号6もここから来ている…のではなく、同じ名前であり同じ外野手である中根仁が引退する際に引き継いだもの。中根は多村が成長したら引退すると決めていたそうだ。

しかしとにかく怪我の多い選手であり、開幕前のポスター撮影でジャンプしての足首捻挫や握手会で手のひらを炎症し欠場するなど、通常では考えられない故障を繰り返したことから、ちょっとした段差から落下しただけでミスになるシビアなゲームの主人公に見立てて「スペランカー」と呼ばれた。 当時の横浜はまさに暗黒であり、多村のフル出場は横浜ファンの願いの一つだった。
銭闘戦士としても有名。「大台(1億)に行かない理由が無い。出さないと球団が恥ずかしいと思う」は2004年オフに彼が言い放っためい言である。そんなこともあって、2006年オフにトレードでソフトバンクに出される。(相手は寺原) ソフトバンクでは、初年度に打率2割7分、13本塁打、68打点、4ミートグッバイを達成、翌年は4月に左翼手と交錯して右足を骨折し前半戦を棒に振るも17本塁打、57打点と前年並の成績を残すなど彼らしい活躍をした模様。 2011年には骨折しながらも日本シリーズに強行出場し、第3戦でホームランを放っている。 2012年オフのトレードでDeNAに再び戻るが 、筒香・梶谷の外野コンバートもあり、レギュラー奪取には至らなかった。

2015年に戦力外となったが、中日が接触。NPB史上最年長の育成選手となるも、2016年10月1日に現役引退を表明した。 もし、まだDeNAで現役だったら今年の日本シリーズどうなっていたかなぁ…

     _ _
    /_Deヽ_   フワーリ
   彡 ´ー`)    
   と( 6 )っ  
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   彡  ゚ー゚)  
#6 井口 資人
 福岡ダイエーホークス (1997 – 2004)
 →シカゴ・ホワイトソックス (2005 – 2007)→フィラデルフィア・フィリーズ (2007)
 →サンディエゴ・パドレス (2008)→フィラデルフィア・フィリーズ (2008)
 →千葉ロッテマリーンズ (2009 – )

背番号「6」は千葉ロッテマリーンズでのもの。
初芝清元選手が2005年に引退して以来、準永久欠番となっていました。
過去には落合博満元選手がつけていたことも。
ミスター・ロッテの背番号。

2017年6月に今シーズン限りでの引退を発表。
引退試合となった9月24日は、チーム全員が背番号「6」をつけて試合に臨みました。
引退試合でのバックスクリーンへのホームランには、シビれました。

同一背番号着用の試合としては、メジャーリーグの「ジャッキー・ロビンソンデー」が
有名ですが、日本ではあまり例のないことかもしれません。
参考:MLB全球団の永久欠番“42”その背番号に込められた意味とは?
https://matome.naver.jp/odai/2137733830446795201

引退試合での同一背番号といえば、横浜DeNAベイスターズの
三浦大輔元選手の「18」が記憶に新しい。

そんな井口元選手ですが、2018年シーズンから
ロッテの一軍監督を務めることが先日(10月12日)発表されました。
背番号は現役時代と同じく「6」を使用するそうです。
監督としての采配にも、期待したいところです。
#5 清原 和博 (PL学園)
今回の大阪アノマリーに関係あるかわからないが、粉モン系で色々ありお茶の間を賑わせたいわずとしれた野球界のスーパースター。
PL学園高時代に記録した夏の甲子園1大会HR記録は今年塗り替えられたが、春夏通算HR13本はダントツでしばらく安泰だろう。昨年休部したPL学園硬式野球部の復活と共に本人の更正を望む。
光~輝く~大空高く~燃える男だ~チャンスに強いぞ清原!
#5 茂木 栄五郎 (楽天)
楽天イーグルス初の生え抜き(ドラフト入団)2桁ホームラン(17本)達成者。
魅力は初球からフルスイングしていく積極性で、今年のレギュラーシーズンだけで初回先頭打者ホームランを6回、うち初球先頭打者ホームランを3回記録している。
相手投手からすると試合が開始したと思ったら1失点しているのである。これは恐ろしい。
象徴的なのがクライマックスシリーズ1戦目を大敗し後がない楽天の2戦目、先頭打者の茂木は初球をホームラン。
前日までの重い空気を一気に変えた。

なお応援コール(応援歌とは別)はフルネームを連呼するだけで、最初本人は雑な応援だと思っていたそう。
しかし覚えやすいリズムと歌詞のおかげで浸透し、中毒者が多数いる模様。
#4 藤井 淳志(中日)
永遠の若手と言われ続けてはや36歳。
好守・強肩・スイッチヒッターながらパンチある打撃で魅了しつつ、牽制死・ルンバ(走塁ミス)・後逸でガッカリさせることも忘れない、ファンの期待とため息を一身に集めるプレイヤーである。
なお走塁死の翌日はりきって取り組んだのはなぜか打撃練習でありとあらゆるつっこみを受ける、そんなところもまた藤井らしい。
出身地の愛知県豊橋市で年1回だけ行われる試合ではサヨナラホームランを打つなど大活躍することから、その他の球場の試合では「ここを豊橋だと思え」という洗脳めいた応援ボードを見かけることがある。
#4 岡島豪郎(たけろー)(楽天)
楽天の左の俊足外野手トリオ?(聖澤・島内・岡島)の一人。
元々は捕手で入団したが、2年目となる2013年に正捕手嶋の打撃が好調だったため、出場機会を求めて星野監督(当時)に直訴し外野手となった。
このため、ごく稀だが捕手を使い切った試合では緊急的にマスクを被ることも。

大学1年の時ニトリでシロクマ型の抱き枕「ジェシカ」と出会ってから、ジェシカが無いと眠れなくなったらしく、キャンプにも同伴していた…のだが。

2013年の優勝報告会にて…
豪郎「ジェシカはもうつかってないっす」
司会者「では今ジェシカはどこに…」
豪郎「きっとゴミ焼却場で…安らかに…」
司会者「」

2016年オフに背番号を4に変更。
また、プライベートでは結婚した。お相手はなんとホークスのリポーター。緊張のあまり震える足でプロポーズしたものの、聞き逃されてしまいやり直しになったそうな。
( ´_ゝ`)フーン…

今年は春先好調だったものの、暑くなるにつれて打率を落としてしまった。 ペゲーロの加入、後半戦にはオコエ瑠偉の台頭があり、外野のポジション争いは厳しくなる一方だが、今は亡きジェシカのためにも是非 爆 発 していただきたい(いろんな意味で)
#3 サブロー(ロッテ)
PL学園高等学校→千葉ロッテマリーンズ (1995 – 2011)
→読売ジャイアンツ (2011)→千葉ロッテマリーンズ (2012 – 2016)

本名:大村三郎
2016年に引退。

ウグイス嬢、谷保さんのながーい
「サブローーーーーーーーーーー」
が印象的だった。
#3 梶谷 隆幸(DeNA)
ホームランも打てる、盗塁もできる、ただし三振数は日本一、という色々アンバランスな選手。元々自分勝手なプレーが多く、ファンの中でもそのようなイメージを持たれていました。しかし、近年ベイスターズが強くなると共に彼の意識が大きく変わり、それがインタビュー記事などを通じてファンに伝わると大きな衝撃を与えました。
それと共にファンの梶谷に対するイメージは激変し、更にファンに愛される選手になりました。

現在、横浜スタジアムに行くと筒香に引けを取らないほどの声援を受けています。
個人的には、ベイスターズのここ数年での劇的な変化の象徴と言える選手だと思っています。

以下、記事の一例(抜粋)です。まさかあの梶谷がこんな事を言ってくれるようになるとは。。。

──昨年のCSでは骨折しながらプレーするガッツを見せましたが、最後は悔しい思いをしました。あの悔しさ、経験は今年に生かされていますか?

 大きな経験でした。込み上げてくるものがあって、プロ野球に入ってから初めて試合に負けて泣きましたから。
今年はなんとか日本シリーズに行きたいという強い気持ちでやっています。やり返したいです。

──マツダスタジアムで敗れたことが今年の原動力となっていた?

 そうですね。昨シーズンの終盤くらいからですかね、本気で試合に勝ちたいと思い始めたのは。それまでも毎試合、勝ちたいと思ってプレーしていましたが、本気ではなかったんだと思います。
それよりも自分がプロの世界で生き残ることが最優先。人生や生活がかかっているので、いい成績を残して金を稼ぎたいとか、そっちのほうが大きかった。当時はハングリーというか、そういう気持ちでやらなければ僕のような選手は、この世界からすぐに消えていったでしょう。
でも、昨年のCSを経験してから考え方が変わった。「勝ちたい」と思うようになれたんです。
#2 吉持 亮汰(楽天)
50メートルを5秒68で走る俊足と、遠投125メートルの強肩を誇る内野手。身体能力の高さはオコエ以上とも言われている。広陵高校を卒業後、大阪商業大学へ。関西六大学リーグ史上歴代2位となる通算62盗塁をマーク。“浪速のスピードスター”として2015年ドラフト2位で楽天イーグルスに入団(1位はオコエ、3位は茂木)。

そんな吉持、プレーもさることながら、その天然ぶりが周囲から注目されることとなる。例えば、イースタンでのある試合中、吉持のポケットから何かがこぼれ落ち、審判に拾って渡されたのが、ホテルのカードキーだった、また、プロ初安打を記録し、試合後に記念撮影したが、手にしたボールは打撃練習用のボールで「指摘されるまで気がつかなかった」などなど。極めつけは、2016年6月に楽天がサヨナラ勝ちした試合、サヨナラヒットを放った藤田へ周囲が水掛けの儀式を行う傍ら、なぜか豪快にセルフ水ぶっかけする姿が目撃された。

一方、入団以来、肩痛など怪我に悩まされることがしばしばで、同年6月末には、イースタンでの試合中に右手首に死球を受け、骨折してしまう。しかし、ただでは起きない吉持はここでも伝説をつくる。同年8月楽天イーグルス泉練習場付近を練習着で歩いていたところ、ストリートビューカーに偶然とらえられ、翌年、聖澤のインスタにてその姿が公開、”ストリートビューに映り込んだ世界初のプロ野球選手” が爆誕した。なお、今現在もその勇姿は下記のアドレスから見られる。
https://www.google.co.jp/maps/@38.3489955,140.8800594,3a,75y,81.4h,73.6t/data=!3m6!1e1!3m4!1sp9yajEftMJDMZ8y10t7Quw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja

その後復帰し、U-23ワールドカップでは日本代表に選出。DHとして打撃面で貢献し、日本初優勝を支えた。今後の活躍が期待されたが、怪我がちなところは変わらず、2017年7月には右手の腱の移行手術を行い、復帰まで4ヶ月と発表された。貴重なユーティリティ内野手としても、また多くの伝説を残してもらうためにも来年以降の飛躍を期待したい選手である。
#2 栗橋 茂(近鉄)
帝京商工から駒澤大学を経て、1973年ドラフト1位で近鉄入団。
以来、近鉄一筋に1989年まで16年間プレー。通算1,550試合出場、1,301安打。1980年に最高出塁率のタイトルを獲得。ベストナイン3回。
身長は177cmとそれほど大きな選手ではなかったが、”和製ヘラクレス”と呼ばれ、筋骨隆々の鍛え上げられた肉体から繰り出される、パンチ力ある打撃が魅力の外野手。ただし、本人はほとんどウエートはしていなかったとのこと。

結婚経験がないことでも知られ、キャンプ中のバレンタインチョコの数はそれはそれはすごいことになっていたそうである。
また、酒豪としても有名で、公私にわたり付き合いが深く、仲の良い後輩の金村義明に言わせれば「自分が見た最後のサムライ」だそうであるが、実際酒やら何やらのエピソードは多く、翌日デーゲームでも飲んでは朝帰りの常連だった。ただし、その手のいわゆる逸話については、栗橋に言わせれば「半分以上金村が盛っている」そうで、そのあたりはよくわからない。

中学から高校にかけて、ヤクルトの宅配のアルバイトをしていたというエピソードもあるが、筆者にとって一番謎なのは、なぜ応援歌が「ダッシュケイオウ」だったのか?である。それも近鉄においては栗橋専用のテーマであった。

ちなみに、ロッテについて、川崎球場を本拠地としていた時代、スタンドで流しそうめんをやっていたファンがいたとの話と似た話として、近鉄の本拠地であった藤井寺球場のスタンドでも七輪で焼肉をやっていて、「お?い、栗橋?こっちきて食わんか?」と、レフトの守備についていてファンから呼びかけられたこともあったとか。なお、七輪焼肉についてはさすがに慌てて球場係員がすっ飛んで行ったらしい。
東京出身で、ドラフトで指名されるまで近鉄には馴染みがなかった栗橋であるが、今はその藤井寺球場の跡地の近くで、「しゃむすん」という名のスナックを経営している。昔から料理自慢でも有名であり、アノマリーの折に一度訪問されてはいかがだろうか?
#2 内川 聖一(横浜→???)
かつて横浜ベイスターズに在籍した、将来を嘱望された内野手。

踵の骨に穴が開くという病気を患い、高校時代に3度手術をした。
このため高校時代は実働1年程だが、41本のHRを放っている。

2000年ドラフト1位で横浜に入団。
故障持ちながらも走攻守を兼ね備えたショートであり、入団当初は石井琢朗の後継者として期待されていた。

しかし、ここから横浜の転落、そして暗黒が始まってしまう…。

2003年からの山下監督時代は石井琢朗の降格などのチャンスを生かし、
遊撃や二塁で出場機会を掴むと、2004年にはHR17本を記録。
だが、チームは圧倒的最下位に沈み、山下監督は退任した。

2005年からの牛島監督時代は、スタメンは一転して守備重視の布陣となる。だが、このころイップスとなってしまい、内野守備で送球ミスを連発。外野手に挑戦するも監督からの信用は得られず代打どまり。
牛島監督も結局2年で退任。

2007年から大矢監督政権になり、外野手に専念し出場機会を確保。
2008年に1塁手としてようやくレギュラーに定着。
すると打って打って打ちまくり、打率.378を記録して首位打者に。
(現在においても右打者としての史上最高打率記録)

2009年のWBCでは大活躍を見せ、優勝に貢献。
決勝戦のレフトでのファインプレーを覚えている人もいるのではないだろうか。

…だが、内川自身の成績とは裏腹に、横浜は2008年から3年連続90敗越え。
首位打者とHR王(村田)が居ても勝てないチーム。選手もファンも絶望の中にいた。

ライトスタンドから飛んだヤジに対して、
「いなくなって初めてその存在の大切さみたいなものに気付くんじゃないですか」
そう発言し、FA権を取得したその年に横浜を出て行った。

その後は良く知らないが、どうやら「海の向こうの」球団に移籍したようである。
風の噂では、古巣の球団に対してあれやこれや言っていたようであるが…

(つづく)
#1 内川 聖一(??→ソフトバンク)
福岡ソフトバンクホークスの4番打者であり三代目キャプテン。 (ちなみに初代は秋山、二代目は小久保) 2011年に入団し、ホークス生え抜きを自称するが、 何故かセ・パ両方の首位打者のタイトルを獲得している。(史上二人目)

2011年オフに背番号1だった柴原が引退。 現役時代背番号1だった秋山監督より「お前がつけろよ」と指名され、 背番号1を背負うことになる。 なのできっとエリート生え抜きなのだろう。
実際、7年連続で打率3割を達成(右打者では落合と並び1位タイ)するなど、 その功績は眩いばかりである。 2017年終了時点で2000本安打まであと25本に迫っている。 まだまだ衰えを見せておらず、2018年の早い時期での達成が期待される。

追記 (暗黒時代からの横浜ファンとしては)日本シリーズで闘う日が来ようとは正直思いもしませんでした。「お互い日本一を争うのにふさわしい試合ができればいいなと思ってます。」と仰っていましたが、ご期待に添えているでしょうか。 互角、とは言い難い部分もありますが、第6戦もお互いが死力を尽くした好勝負となることを期待しています。

追記の追記 我々も悔いを残さないよう、全力でアノマリーを闘いましょう! 絶対勝つぞ!エンライテンド!
#1 森本 稀哲(ひちょり)(日本ハム→横浜(DeNA)→西武)
在日韓国人の父を持ち、その珍しい名前も韓国語の読み「ヒチョル」からつけられた。 小学1年生の時、汎発性円形脱毛症で髪を失う。友達の誘いをきっかけに野球を始めるが、「帽子をかぶっていられるから」という思いもあったそう。

帝京高校に進学し、3年生の時主将として甲子園に出場。当時浜田高校だった和田毅から同点ホームランを打つも、敗退。 日本ハム入団後は打撃が伸び悩むが、 2006年にようやく1番レフトに定着し、7月のオールスター第2戦では新庄以来となる本盗を記録。
その年のオフに新庄が引退すると、新庄の意向により背番号1を継承した。

選手としてもそれなりに凄かったのだが、やはりひちょりといえば明るいキャラとパフォーマンス。コンプレックスだったであろう頭を逆手に取ったコスプレは、札幌ドームを大いに盛り上げた。 新庄が後継者に指名したのも誰もが納得したことだろう。

その後、日本ハムでは糸井に出番を奪われ始め、2011年横浜へFA移籍。 中華街で会見が行われ、なんとラーメンマンのコスプレで登場。 当時すごいワクワクしたなぁ…。 しかし残念ながら怪我が多く、その後はあまり活躍できなかった。 2015年に引退してしまったが、今でも球場で彼の名を聞くことはある。 それは9回2アウトの場面、「あと一人」コールの代わりに「あとひちょり」と言い換えるのだ。

さて、このカウントダウンも残すところあと1日。 あと1人…かどうかは分からないが、このコールで締めたいと思う。 あっとひっちょり! あっとひっちょり! ! あっとひっちょり!!! あっとひっちょり!!!!
#0 川相 昌弘 (巨人)
背番号は巨人在籍時、1989年ー1999年のもの。巨人で初めて0番をつけた選手。 なお、現役時代の背番号は60→0→6→7、と変化している。

岡山南高校から1982年ドラフト4位で巨人へ。高校時代はエースであったが、巨人入団後すぐに内野手へ転向。 守備については徐々に上達していったが、高校時代は打者としても主軸であったにもかかわらず、打撃面で伸び悩み、一時期スイッチヒッターにも挑戦していた。 1989年に背番号を0に変更。藤田元司が監督として復帰したタイミングであった。この頃、巨人は河埜和正引退後の遊撃手がなかなか固定できていなかったが、定位置争いに勝利したのは、守備と確実性のある小技を磨いた川相であった。

この年以降、2番・遊撃手のレギュラーに定着。1998年以降は守備要員としての起用が多くなり同時にここ一番の送りバントのための代打、という起用も増える。

その後、2003年に一度は引退を表明したが、原辰徳監督辞任に伴うゴタゴタもあり、結局入団テストを経て元同僚の落合博満が監督を務める中日へ移籍し、2006年シーズンをもって引退。1964年度生まれの野球選手として、最後に現役を引退した選手でもある。 通算成績は1,909試合出場、1,199安打。ゴールデングラブ賞6回、ベストナイン1回。しかしながらなんといってもすごいのは通算533犠打で、これはNPB記録。誰がどう見ても送りバントをするために代打起用され、そのような警戒される状況でもきっちりバントを成功させる様子は、まさしく職人芸であった。シーズン最終戦はスタメン出場して送りバントを決め、現役最後の出場となった2006年日本シリーズ第6戦でも、代打出場してきっちり送りバントを決めた。

その後、中日、巨人で指導者としての経験を積み、来シーズンは巨人二軍監督となることが発表されている。巨人の二軍監督は二度目の就任である。 現役時代のニックネームは「ジイ」であったが、これは老け顔と、和製オジー・スミスに引っかけたものとされている。また、プレーの印象とは異なり、意外と激しい気性から背番号に引っかけて「台風0号」などとチームメートから呼ばれたこともあったらしい。 藤田元司が川相を高く評価していたこと、川相も藤田を尊敬していたことは有名であるが、2006年のキャンプ中に死去した藤田の葬儀に出席するため、中日球団の許可を取って川相は藤田の葬儀に出席している。 下記、藤田元司と糸井重里の2002年の対談を読むと、藤田の川相に対する含蓄のある評価が垣間見える。 http://www.1101.com/education_fujita/2002-10-31.html

目立ちはしないがきっちり自分の仕事をこなし、常に精一杯やりきり、縁の下の力持ちに徹することのできる選手をきちんと起用し高く評価できるチームは強いチームであると筆者は思う。
#0 木村 拓也(日本ハム→広島→巨人)
投手を除く全てのポジションを守れる球界屈指のユーティリティプレーヤー。愛称はキムタク。通算では二塁手と外野手の出場が多いが、日本ハム入団は捕手としてだった。

派手さは無いが、負傷で捕手がいなくなった試合で10年ぶりに捕手の役割を務める、緒方孝市(現カープ監督)の引退試合では途中出場でセンターの守りについた緒方のいる所へ打球を飛ばす等、器用さを持ちあわせている選手であった。

引退後巨人軍コーチに就任し、新人研修では以下の発言があった。『自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか』

ドラフト外のプロ入りから始まり、野球を少しでも長く続けていく為に様々なポジションを守った苦労人らしい言葉である。