このページでは2019年3月23日に向けてのカウントダウン文章を紹介します。
※所属等は記載当時のものになります。
#107~#100
- #107
- 本日は107日前です。
『107球』というと、どんなイメージを持たれますか?
球数制限?熱投107球?無念の107球?
2018年のやきう界でも、『107球』のいろんなドラマがありました。
5月には楽天の則本投手が、107球9奪三振の力投でシーズン初完封をしたかと思えば、
9月にはDeNAの東投手が、巨人・菅野投手との息詰まる投げあいの中、107球9奪三振の力投むなしく8回降板、12勝目を逃すなど。
甲子園予選の西兵庫大会では、107球目に無情のサヨナラヒット・・・
実にドラマがある球数なんですね。
思い出す107という数字、何がありますか?
- #106 福本 豊 (阪急ブレーブス)
- 「アノマリーで勝つにはどうしたらいいですかね?」
「まず自分のスマホにスキャナをインストールせなあかんね」
世界の盗塁王にしておもろいおっさんである福本豊が、プロ4年目の1972年に達成したシーズン最多盗塁のNPB記録が106である。写真は当時MLB記録であったモーリー・ウィルスの104盗塁の記録を抜く105盗塁を記録した際に「盗んだ」ベースを抜いて掲げた時のもの。優秀な外国人選手を度々阪急に招聘した矢形勝洋は「福本はいずれ記録を作るから」と期待しており、事前にドジャースの球団職員であったアイク生原を通じてウィルスへ談話を寄せてほしいという要望を伝え、その談話は記録更新の際に新聞に掲載された。
NPB全体でもシーズン盗塁が3桁に到達したのはこの1972年の福本だけ。106盗塁の内訳は二盗72、三盗23、そして現役時代唯一記録したホームスチールが1。本人いわくこのホームスチールは「滅多にないテレビ中継があるので狙っていた」とのこと。試合の視聴環境が大幅に変わった現在であったら、こんな記録も生まれなかったかも知れない。また、この際ヘッドスライディングで本塁に生還しているが、「怪我のリスクが高まる」「走り抜けても到達時間は大差ない」として、福本は引退後の解説などでヘッドスライディングはするなとたびたび苦言を呈している。そして現役時代も足からのスライディングの技術を徹底して磨くなどして故障を防ぐ取り組みをしており、数ヶ月以上に及ぶ長期の故障離脱も現役時代はたった1度だけであった。
福本のシーズン最多盗塁の106、そして現役通算盗塁数1065は今後更新が極めて困難な記録とされている。
加古川より向こうにミッションしに行ったら帰れなくなったので、1泊してさらにミッションを続行した経験が今季2回ほどあった中の人によるカウントダウンでした。
参考文献
福本 豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014
宇佐美 徹也『プロ野球記録大鑑 昭和11年→平成4年』講談社、1993
- #105 蔦文也 (池田高校)
- BSやCS放送などなかった頃、田舎では巨人戦以外の試合放送は無く、一日中野球を見ていられる春夏の甲子園はやきう小僧にとって極楽のような時間だった。
そして、筆者が小僧だった80年代前半の甲子園を鮮やかに彩り、見る者の心をつかんで離さなかったのが、「攻めダルマ」蔦文也監督率いる徳島県立池田高校である。
“”超高校級””畠山準や””阿波の金太郎””水野雄仁らが主軸の「やまびこ打線」が、荒木大輔ら好投手・堅守で鳴らす好チームをこれでもかとボッコボコに打ち崩すスタイルは、ただただ豪快の一言。おまけに、それが片田舎(失礼)の公立校だっていうもんだから、まるで2018夏の金足農ブームがごとく日本中が熱狂したものだ。
その池田高校を主役の座から引き摺り下ろしたのが、KKを擁する名門私立PL学園ってあたりも鮮烈なドラマだったなぁ。
ちなみに、10月5日は「達磨忌」と呼ぶんだそうで。
- #104 甲子園
- 今年の夏の甲子園、第100回記念大会って盛り上がったけど、戦争がなかったら第104回だったらしいで!バーチャル高校野球高校野球サイト:バーチャル高校野球 | スポーツブル (スポブル)
https://vk.sportsbull.jp/sp/koshien/articles/ASH5D4S03H5DPTIL00H.html高校野球の速報、日程・結果、動画、ニュース、写真など掲載。秋の国体、明治神宮大会も無料ライブ中継を配信。朝日新聞社とABCテレビが提供する高校野球オフィシャルサイト。
- #103 近鉄バファローズ
- 2017年ヤクルトの96敗という記録的大敗は記憶に新しいところですが、上には上がいるもので。
日本プロ野球の最多敗戦記録は、1961年近鉄バファローの103敗です。相手エースが登板すると、主力選手が仮病で休むなんてこともあったそうで…
往年の巨人の名選手、千葉茂が監督を務めていましたが、この大敗を受けてあえなく解任。
チーム名もバファローからバファローズに改名。
そら、そうよ。
- #102 栗田雄介(千葉ロッテマリーンズ)
- 刺すような冷気の東京から逃れるようにたどり着いた石垣島。
キャンプ地最寄りのファミマ(ココストアはここにはもうない)でオリオンビールを買い、ロッテのキャンプ地へと向かう。
普段はハイボール派でもオリオン派、泡盛派になるのはこの南国の熱気故か。
午前中はブルペンやシートノックが中心。
シート打撃が始まるのはランチ後、日没の遅い石垣でも特打が終わる頃にはうっすら暗くなることも。
キャンプ中の打撃投手は選手がランチを取ってる間にウォーミングアップを始め、特打が終わるまでひたすら打者へ投げ続ける(コーチが打撃投手を務めることもあるが)。
オリオン缶片手にぼんやりとグラウンドを眺めてると、(この時分はすでにほろ酔いだが)ひときわ小柄な左腕についつい目が行く。
背番号102、栗田雄介打撃投手。
2003年、近鉄最後のドラフトで最終7巡目で指名され、入団。
近鉄最後の公式戦となる2004年9月27日に最初で最後の一軍登板を果たす。
ある意味、「最後の近鉄戦士」である。
近藤が最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、坂口がキャリアハイに迫る成績を残す。
そして岩隈がNPB復帰。数少なくなった近鉄戦士が引き続きそれぞれの活躍を果たす中、NPBの別のフィールドで小さな一花を咲かせている。
- #101 野村克也(文筆家)
- ID野球を旗印に、90年代ヤクルトを黄金時代に導いたご存じノムさん。
燕党は足を向けて寝られない、偉大な名将です。
ノムさんは名選手・名監督というだけではなく、長い野球生活で培った人生訓やマネジメント論を数多く執筆する文筆家でもあります。
あまりに多くの書籍を出されているので、どこから手をつけてよいのか悩むとは思いますが、大半のエピソードは使い回しなのでだいたいどれを読んでも一緒です。
それでも「まずはこの一冊」と言われれば、筆者はこれを選びます。
「私が野球から学んだ人生で最も大切な 101 のこと」
海竜社(2011年)
なんてったって101です、ほとんどのエピソードが網羅されてるのでお得!www.kairyusha.co.jp
海竜社 私が野球から学んだ人生で最も大切な101のことhttp://www.kairyusha.co.jp/ISBN/ISBN978-4-7593-1191-4.html
- #100 松井 裕樹(楽天)
- 22歳10カ月の若さで 史上最年少100セーブ を達成。
開幕当初から不調のため、9月での達成であった。
というか今シーズン、100セーブまで残り4の状態でスタートしたのだからもうちょっと早く達成できましたよね・・・?
今オフでの契約更改では、提示を保留。
理由は「来季の起用法が分からない」から。
出来高が先発としてなのか、抑えとしてなのかで違ってきますしね。
シーズンの終盤では先発復帰も経験し6回14三振の記録も残したが、来シーズンはいったいどのような起用法になるのだろうか。
#99~#90
- #99 中村紀洋(近鉄・中日他)
- 1軍の試合に出場可能な支配下登録選手が付けることができる、最も大きな背番号。
「すぐ隣は3桁(育成選手の背番号)でギリギリ2桁」
という意味で、育成契約から変更で支配下契約を結ぶ選手が付けることが多い。
一方でもっと小さい番号を付けていたのに、背番号変更で99に変更になった選手は「もうこれ以上後は無いから覚悟しておけ」という球団からのメッセージが込めれてる場合もある。
中日で育成契約から支配下契約になり背番号99を付けた中村紀洋は、その後の楽天・DeNAでも背番号99を付けていた。
そういえばシーズン途中で監督を辞任した、某東北の球団の前監督も背番号99だったなぁ。
- #98 真中満(東京ヤクルトスワローズ)
- 2007年、1シーズンの代打回数 98回 の日本記録保持者。
この年の真中は代打でヒットを31本打っている
(こちらも日本記録)。
94打数31安打、打率.330と代打の神様っぷりである。
なお、今はドラフト抽選の失敗を持ちネタとした、ドラフト芸人と化している模様。www.sponichi.co.jp
https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20080...https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20080911Z00002680.html
- #97
- 春季キャンプって少なくとも1ヶ月間はキャンプ地で過ごすわけなので、ベテランになってくると年単位(1ヶ月×プロ年数)の期間をキャンプ地で過ごしていることになるんだなぁって思いました。
- #96 クロワシさん(東北楽天ゴールデンイーグルス)
- ユニフォームを着たおじさんの肩に、黒いワシを載せているだけのキャラクター。
背番号は9604(クロワシ)。
主に球場内で活動し、「愛の宮城野」という歌も発表していた。
2017年シーズン終盤は、千葉ロッテの「謎の魚」に変なキャラクター枠を奪われる形となり、ひっそりと契約終了していた。
- #95 フランシス・ルイス(中日ドラゴンズ)
- 下手をすると日本人選手より日本語が上手いと言われることまである「通訳のルイス君」。
しかし、スペイン語の通訳以外にもブルペン捕手、打撃投手、さらには球団編成部国際渉外担当、外国人担当と、裏方仕事を幅広く担当している。
ドミニカのカープアカデミー出身。
1997年から広島にテスト生として2年間在籍するも、支配下登録はならず。
その後球団スタッフとして広島に残り、ブルペン捕手を務める傍ら日本語を学ぶ。同学年の新井貴浩とは今でも仲が良いようである(となると、君付けするような年齢ではないのだが…)。
2007年、ドミニカからやってきた2人の投手(フランクリン・グラセスキー、サンティアゴ・ラミレス)を支えるブルペン捕手兼スペイン語通訳として中日に移籍。
この年のみ 背番号95 を着ける(現在の背番号は101)。
ちなみに前年に95を着けていたのはシーズン途中に日本ハムから移籍してその年限りで引退した奈良原浩で、奈良原は翌年から中日のコーチとなったが背番号は82に変更されている。
NPBでは選手引退→翌年コーチ就任の際は背番号が大きくなるのがほとんどの中で、逆に背番号が小さくなるという極めて珍しい例である。
2008年、同郷の「サトウキビ畑から現れた身の丈2mもある大男」マキシモ・ネルソンを、毎年恒例ドミニカ視察中の森繁和コーチ(当時)に紹介し、ネルソンは中日に入団。
5年間在籍し、特に2011年は先発で投げまくり(31先発はこの年リーグ最多、中4日で投げることも)、10勝を挙げて中日の球団史上初リーグ連覇に貢献する。
スペイン語、日本語だけでなく英語でもコミュニケーションがとれるそうで、今季中日に在籍していたアメリカ出身のディロン・ジーからも仕事ぶりを感謝されている。
NPBのオフシーズンにはドミニカのウィンターリーグへ武者修行に出る日本人選手のサポートも行う。
来季は来日から22年目で中日に移ってからは12年目。
中日は外国人選手からチームの居心地のよさを高く評価されているが、その大きな要因のひとつは間違いなく「通訳のルイス君」の存在であろう。
- #94
- 野球の世界で「10.8決戦」といえば1994年10月8日にナゴヤ球場で行われた中日vs巨人の試合である。
なお、中の人は当日地元で開催されていた某アーティストのライブに行っていたため試合の顛末を知ったのはそのライブの後であった。
ただ遅刻癖や極度の気分屋など数々の逸話で知られる某アーティストのライブは、開場が1時間近く遅くにずれ込み、その間ひっそりラジオ中継を聴いていた開場前の列に並んだ中日ファンと思しき客が
「落合が今中からホームラン打ったぞ!」
と悲痛な叫びをあげていた。
ちなみに当時のナゴヤ球場へのアクセスは名鉄のナゴヤ球場前駅と、JR東海が貨物線上に設けていた臨時駅であるナゴヤ球場正門前駅であった。
3年後に本拠地のナゴヤドーム移転が決まっており、JRのナゴヤ球場正門前駅はこの年をもって廃止することになっていた。
もし「10.8決戦」で中日が勝ち、リーグ優勝して日本シリーズに進出すれば「延命」できたのだが、それも叶わずナゴヤ球場でのこの年の最終戦が終わったこの日をもって駅の営業を終え、翌年に球場近くの東海道線に尾頭橋駅が開業する。
そして名鉄のナゴヤ球場前駅は2005年に山王駅と改称しているが、1軍本拠地がナゴヤドームに移転し、外野スタンドなどが撤去されたものの現在もナゴヤ球場は中日の2軍本拠地である。
そして、「10.8決戦」の翌日に、実は「10.9決戦」もあった。
同率5位で並んだヤクルトvs横浜によるこの年のセントラルリーグ最終戦にして最下位決定戦が神宮球場で行われ、ヤクルトが2-1で横浜をサヨナラ勝ちで下し、ヤクルトの最下位脱出と横浜の最下位が確定した。
なお、2019年3月7日にそのナゴヤ球場で「10.8決戦」で敗れた中日と「10.9決戦」で敗れた横浜(DeNA)がオープン戦で対戦する予定である。
オープン戦ではあるが、1軍の試合がナゴヤ球場で開催されるのは本拠地移転前以来となる。
- #93
- 19 93 年といえば、球団名を横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに改名。
新たなスタートが切られた年である。
この年の開幕オーダーは、
1 高木豊(三)
2 屋鋪(中)
3 山崎賢(左)
4 ブラッグス(右)
5 ローズ(二)
6 石井琢(遊)
7 長内(一)
8 秋元(捕)
9 有働(投)
このうち大洋でのレギュラーを長年張っていた高木、屋敷、山崎は、球団の若返り方針によりこの年オフに解雇。
功労者に対する厳しい仕打ちだとファンの間で物議を醸した。
代わりに巨人から FA で駒田を獲得。
さらに空いたポジションを波留、進藤、谷繁らなどの若手が獲得。
これが 98 年の優勝へとつながっていくこととなった。
余談だが、高木豊の三人の息子は、いずれもプロサッカー選手。
屋敷は、鉄道写真が趣味で腕はプロ級。
山崎はコケシバットで有名。
- #92 与田剛(中日ドラゴンズ)
- 1989年ドラフト1位指名され中日に入団。
新人ながら、郭源治に代わって抑えを任されるようになる。
最速157km/hの速球を武器に、セリーグ初の新人2桁セーブを記録するどころか、いきなり最優秀救援投手(4勝5敗31S)となり、新人王も獲得。
翌1991年は故障のため、抑えの座を1年後輩の新人森田幸一に譲る(なお森田もこの年の新人王を獲得)。
1992年に復活する(2勝5敗23S)も、翌年から右肘痛により登板機会は大幅に減少。
なお、与田の出番が大幅に減った1994年・1995年の中日には2桁のセーブを挙げた投手がいなかった。
近年も、岩瀬仁紀以降のクローザー固定に悩まされる時代が続いているとはいえ、福谷浩司、田島慎二はこの間2桁のセーブを挙げる活躍をしていた。
福谷、田島、そして又吉克樹など最近の中日のリリーフ陣に対しては、あまりに岩瀬が偉大すぎて不甲斐なく感じる面もあり奮起を促したい思いももちろんあるが、「ポスト与田」がなかなか見つからなかった抑え不毛の時代と比べればまだ恵まれているほうであろう。
1996年にギャオス内藤とのトレードでロッテに移籍。
1998年に日本ハム、2000年に阪神にテスト入団するも、いずれも故障のため登板機会が少なく2000年末に現役引退。
2012年に野球日本代表の投手コーチに就任。
この時から2015年〜2018年の楽天投手コーチ、そして2018年オフからの中日監督に至るまで指導者としては一貫して、中日での現役時代の29を逆にした背番号92を背負っている。
監督就任直後のドラフト会議では根尾昂の4球団競合指名のくじを自身の肩幅手で引き当て、根尾への指名あいさつ後に
「目が好き。先を見据えた、澄んだ目をしている。目の前で見たい男」
と微妙に意味深なコメントをして一部のファンをざわつかせる。
伊東勤ヘッドコーチをはじめ数々のコーチを招聘し、6年連続Bクラスに沈むチームの立て直しを図る。
_______○_______< 非常に楽しみですね!
┌| |┐
- #91
- アノマリーまで、あと91日。
両陣営のPoCも発表になりましたね!
いよいよアノマリーがやってくる感が、高まってきたところで。
前回のAegis Nova TokyoをANTとしたように、今回はDarsana Prime Tokyoなんでしょうかね?そうなると、DPTって略すんでしょうか?
やきう的にDPTといえば、
D ダンミセリ
P ペピトーン
T トマソン
というクソ外人仕事しなかった外国人助っ人の頭文字…!
これでは 九 死に 一 生も得られない…!
あなたのDTPは、誰ですか?
- #90 横浜DeNAベイスターズ
- シーズン 90 敗。
大変不名誉な記録であるが、横浜ベイスターズは 2008 年から 2010 年にかけて 3 年連続で 90 敗以上を喫してしまった。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。
1998 年の優勝以降世代交代が進まなかっただろうか?
野手では、2008年に右打者史上最高打率(.378)で首位打者をとった内川や、2007と2008年に二年連続ホームラン王を獲得した村田修一などの若手の台頭も見られた。
しかし、投手陣に関しては、三浦が一人で奮闘するも、
2008年
ウッド 3 勝 12 敗
那須野 5 勝 12 敗
2009年
グリン 3 勝 15 敗
2010年
加賀 3 勝 12 敗
清水 10 勝 11 敗(頑張ったほう!)
毎年 10 敗投手が出ている有様(三浦も2008年10敗, 2009年11敗)。
他に投げさす投手もいない。
現地に見に行って、先発グリンが 1 回でノックアウトされたときの絶望感を思い出す(涙が出てくる)。
他にも、一貫性のないトレード戦略、その場しのぎの FA 獲得など要因があるが、長くなるのでまた別の機会に。
#89~#80
- #89
- 生きとし生けるやきう民のみなさんへ。
なぜ自分は、試合もないのにお台場で、あるいは大阪の靭帯公園で、あるいは札幌の芸文館で、それぞれバッラバラのプロ野球チームのユニフォームを着た、数年前には見知らぬ他人だった人々と一日中歩き回っているんだろう?
なぜ自分は、テレビで見るものであってする側に回るとは考えたこともなかったビールかけを3回も体験しているんだろう?
なぜ自分は、ドアラとつば九郎のディナーショーのチケットを確保しているんだろう?
なぜ自分は、オリックスの球団応援歌「SKY」を完璧に歌えるようになってしまったんだろう?
考えれば考えるほど分からないことだらけです。
でもきっと答えは「やきう」。
オフシーズンでもやきうの話題は尽きません。
野球に少しでも関心のあるENLエージェントの方はぜひお声かけてください。
待ってます!
- #88
- やきうには精神面の安定というのも大きいものでして。
平常心で臨むことが重要だ、なんてよくいわれてますなあ。
ではどうやって精神面の安定を得るかというと、神頼みだとか験担ぎだとかジンクスだとかいろいろあります。
それこそ、ノムさんじゃないですが勝ってる限り下着変えないとかですね。
連敗時のベンチの盛り塩なんてものもそのひとつでしょうし、シーズン入り前に神社に参拝することもその範囲に入るかもしれません。
一方で、修行により精神の安定を得る、というやり方もあります。
山ごもりだ座禅だ滝行だ、といろいろありますが、当然ながらまあやったら即効果があるというものでもなく、永平寺に一緒に参禅した江夏豊や金田正泰に効果があったかというと、とても怪しかったりします(金田正泰は真面目にやらなかったそうですが)。
最近、やきう好きには最近は特に護摩行が名高いですな。
修行の成果のほどは正直よくわかりませんが、面白画像が提供される、という効果はあるようです。
また、王貞治は荒川道場で日本刀振ってましたが、これなんて技術練習であり、同時に精神修行でもある、という感じでしょうか。
さて、修行といえば四国のお遍路さん。
八十八 箇所の札所を巡る旅です。
大天使・里崎は四国霊場一番札所・霊山寺のある鳴門市の出身ですし、他にも四国出身の野球選手は多いのですが、オフシーズンに四国遍路で精神修養、なんて話は、岩村明憲以外ほぼ聞いたことがないのは、歩きで回ると時間かかりすぎるからですかねえ。
そういえば引退後に四国遍路に出向かれた方がいらっしゃいますが、そもそも全部回ったのか、という疑惑かけられてますな。
- #87 イチロー
- このお方に関しては説明不要と思いますが、「3打数5安打は当たり前、3打数8安打も」とか、「初回先頭打者満塁ホームランを頻発」といった伝説を残されています。
守備の「レーザービーム」については、ぜひMLB公式がアップしている動画をご覧いただきたいですね。
2019年はMLB開幕戦で現役選手として来日予定。3月20日、21日と東京ドームで試合が組まれていますし、3月17日、18日にはNPBとのオープン戦も組まれています。いまから楽しみですね。
2016年 8 月 7 日に、アジア人初のMLB3,000本安打を記録しています。
- #86 山井大介/岩瀬仁紀(中日ドラゴンズ)
- 2007年11月1日の日本シリーズ第5戦(中日vs日本ハム)、中日の先発投手だった山井大介は8回 86 球、1人のランナーも許さないピッチングだったにもかかわらず、「(9回は)岩瀬さんでお願いします」と口にし降板した。
その後を受けて登板した岩瀬仁紀も1回13球、三者凡退で試合を締め、成績を4勝1敗とした中日は53年ぶりの日本一、そしてNPBではレギュラーシーズン含め史上初、そしてMLBでも例がない継投による完全試合(NPBでは参考記録扱い)を達成した。
一部マスコミで「個人の記録よりチームの勝利を選んだ冷酷な落合采配」などと批判されたこの展開だが、事の顛末は次の通り。時系列で並べると…
2回裏
平田良介の犠牲フライで中日は1点先制。日本ハム先発のダルビッシュ有は7回を投げて失点はこの1点のみで11奪三振を記録。
ちなみに日本シリーズで2桁奪三振を記録しながら敗戦投手となった例は他に1992年第7戦の岡林洋一(ヤクルト、vs西武戦)、2012年第2戦の武田勝(日本ハム、vs巨人戦)、2013年第1戦の則本昂大(楽天、vs巨人戦)、2016年第1戦の大谷翔平(日本ハム、vs広島戦)となぜか日本ハムの投手に多い。また、2回も2桁奪三振を記録しながら、どちらも後続が打たれ勝ちを消された今永昇太(DeNA、2017年第2戦・第6戦)の例などもある。
4回ごろ
山井の右手中指の肉刺がつぶれる。
6回
肉刺がつぶれて出た血が、ボールや山井のユニフォームにも付着して目に見えてわかるようになる。指の皮がめくれている状況を見た山本昌が「大丈夫なのか?」とベンチに戻ってきた山井に声をかける。
7回
岩瀬がブルペンで準備を始める。
8回裏終了
8回までパーフェクトピッチングの山井。ここで指の問題もあった上に、ほかのリリーフ陣に迷惑をかけられないとせめて8回までは粘ろうと思った一方、ここまでランナーを出さずに来れたのは野手陣の守備のおかげもあったからと思い9回は岩瀬に任せたいと考え、森繁和コーチの「どうする?」の問いかけに対して降板を申し出る。
一方落合博満監督はこの決断に悩む場面で逃げるようにベンチ裏に下がり「どうしようかな…」と頭を抱える(この場面に限らず、他人に感情を悟られたくない場面で、落合監督はベンチ裏に下がり感情を一通り吐き出してから表向き無表情を貫くことにしていた)が、森コーチから山井が降板を申し出た報告を受け岩瀬への交代に動く。
この8回裏の状況とその後日談は落合・森両者から著書やテレビ番組などで何度か語られているが、この極限状況下の心理描写が何とも人間臭くてドラマチックと思える(※あくまで中日ファンの中の人個人の感想です)。
いろいろ勘繰りたくなる人もいるとは思うが。落合監督は2007年の正力松太郎賞を受賞し、その受賞理由が「勝負に私情を挟まず采配し、チームを勝利に導いたため」とされたが、これだけ様々な私情が錯綜していたのが実態だったともいえる。このエピソードに限らず、落合の「人間臭さ」はあまり知られていないのかもしれない。息子の落合福嗣氏のTwitterからは別の意味で伝わるところもあるが、監督としての落合の感情に焦点を当てた文章として、大洋ファンとして知られる村瀬秀信氏の記事を紹介しておく( https://number.bunshun.jp/articles/-/175853 )。
落合監督も森コーチも、山井の完全試合が見たい思いもある中でこのような決断をしたと後に述べ、森コーチは山井に「お前の言葉に救われた」と感謝の言葉を伝えたという。もし1点差ではなく3〜4点ほど点差が開いていれば、山井本人も「行きたい」と判断しただろうし、森コーチ・落合監督とも「行かせた」と続投を決断しただろうとも語っている。
そして、この並々ならぬプレッシャーがかかる場面で、登板前、いつも通り川上憲伸に「マウンド上がるの怖いよ〜」と泣き言を言いながらも9回を3者凡退で締め、日本一を手繰り寄せた岩瀬ももっと評価されるべきであろう。
なお、山井はその後2013年6月28日のvsDeNA戦でノーヒットノーランを達成した。2014年に最多勝(ランディ・メッセンジャー(阪神)と同率)、最高勝率のタイトルを獲得しているが、通年で活躍した年は現時点でこの年程度。ただ、毎年年に1回ほど手がつけられないピッチングを見せ、それが完全試合未遂やノーノー達成につながったといえる。
当事者以外からの視点ではどうとでも言える出来事ではありますし、その時々で人間の記憶も簡単に書き換わってしまうのですべてを鵜呑みにはできないと思いますが、少なくとも「真実はいつもひとつ」なんて嘘だということがよくわかるお話でありました。
2つのチームが様々な見えない情報を抱えて闘うアノマリー、ここにもひとつではない数々の「真実」が渦巻いているのかもしれません。
The world around you is not what it seems.”
- #85 辻発彦(埼玉西武ライオンズ)
- 背番号*85* は2002年からコーチ・監督として一貫して着けている。
(2002〜04横浜、2006WBC日本代表、2007〜11・2014〜16中日、2017〜西武)
なお現役時代の背番号は西武時代が5、ヤクルト時代が8であり、この2つを合わせた背番号と推測。なお2000〜2001ヤクルトでもコーチだったが、この時の背番号は84であった。
1983年ドラフト2位で西武に入団。
社会人時代は4番サードでチームの主砲だったが、自分より体格が大きくボールを飛ばせる野手がゴロゴロいる中では立場を変えざるを得ないと、チーム事情もあり二塁手を目指し、打順も上位につなぐ9番や1〜2番の上位に置かれることが多かった。
二塁手でのゴールデングラブ賞受賞回数8回は歴代最多。
打撃でも1993年に首位打者となる(ヤクルト移籍後の1996年に.333でキャリアハイの打率を残すが、7厘差で両リーグ首位打者を逃した)。
走塁といえば1987年日本シリーズのセンター前単打で一塁から一気に本塁生還の走塁が有名だが、盗塁死が多いシーズンもあった。
(1986年15/50盗塁死、1988年12/25盗塁死、1990年9/40盗塁死はそれぞれリーグ最多)
指導者として、失敗を怒らず積極性を買うという現在の選手への指導スタイルにも通じる面があるのかもしれない。
2007年より中日二軍監督。2007年と2009年にファーム日本一となる。(なお中日ファンの中の人は、2009年のファーム日本選手権を生観戦し、ライトスタンドで「それは一言日本一、辻監督の胴上げだ」と歌ってこの年一軍が3位だった悔しさをぶつけた思い出もあり)
その後も西武時代の同僚である森繁和が、首脳陣から退いていた2012年・2013年を除き、2016年まで中日でコーチを務めた。
2017年より古巣西武で監督に就任し、1年目から4年連続でBクラスだったチームを2位に導く。
2018年は積極的な打撃・走塁で得点力を増した山賊打線(辻監督は「獅子おどし打線」と命名していたが…)を擁しリーグ優勝。
しかしチーム防御率がリーグワーストの4.24の投手陣がポストシーズンでは弱点となり、日本シリーズ進出を逃し本拠地最終戦のセレモニーで涙を見せる。
2018年オフはFAの2選手の流出を許すが、巨人にFA移籍した炭谷銀仁朗の人的補償で内海哲也を獲得し、MLBへ移籍する菊池雄星が抜ける予定の、今季は結果が残せなかった投手陣の補強にも動いている。
写真は辻監督の長男で、パチスロライターの辻ヤスシ氏が西武の優勝旅行先であるハワイで何かと注文をつけられながら撮影したもの。
- #84 山本昌(中日ドラゴンズ)
- 2006年9月16日、ナゴヤドームの中日vs阪神戦で、
プロラジコンレーサーにしてプロクワガタブリーダーの山本昌は趣味のプロ野球投手でNPB史上 84 回目(73人目)のノーヒットノーランを達成した。このノーノーは次の通り記録ずくめであった。
41歳1ヶ月の達成でNPB史上最年長
ちなみにMLBの史上最年長記録保持者はノーラン・ライアンの44歳3ヶ月(本人7回目のノーノー)。なお、今年4月15日にバートロ・コローンが44歳11ヶ月で7回パーフェクトまで行ったものの、8回に四球と安打を許し完全試合もノーノーも逃す。
史上2人目の無四死球による準完全試合
許したランナーは4回のサード森野の1失策によるもののみ。無四死球1失策ノーノーは1948年9月6日の真田重男(大陽)以来。これは1リーグ時代最後の記録で、こちらも阪神戦での達成。
ナゴヤドームで初
2018年現在でも唯一。中日ホームゲームでみると1987年8月9日の近藤真一プロ初登板初勝利ノーノー以来。
41年ぶりの阪神相手の達成
阪神はこれまで10回ノーノーを献上しておりこれは史上2位(1位は中日の12回。後述の通り今年1回献上した)だが、阪神は久しくノーノー献上がなかった。
また、この年は10月15日の中日vs横浜戦で山本昌はセーブを挙げ、セリーグの最年長セーブ記録を更新した(41歳2ヶ月)。
10月10日のvs巨人戦で優勝が決まっており、この試合は日本シリーズに向けた投手陣の調整の意味合いが強かったが、中田賢一-川上憲伸-山本昌が3イニングずつ投げ、勝ちは川上に、セーブが山本昌に付いた。
ちなみに同じ年にノーノーとセーブを記録したのはこの時点で史上3人目で、今年7月27日にvs中日戦でノーノーを達成した後9月23日にvs阪神戦でセーブを挙げた山口俊(巨人)が4人目に続いた。
2006年の日本シリーズ(vs日本ハム)には第2戦で先発するが、1点リードの7回に金子誠に逆転タイムリーを浴び敗戦投手となる(この試合、中の人は先発山本昌目当てで生観戦してました。当時の打席の登場曲だったサザンで歌った思い出…)。
日本シリーズはこの後2010年の第4戦(vsロッテ、な阪関無誕生の年ですね)に先発したが、3回3失点で降板し勝敗つかず(その後中日が逆転勝ち)だったため、通算成績6試合0勝4敗となり日本シリーズではついに勝利投手になれなかった(クライマックスシリーズを含めても勝利投手になれず)。
ちなみに山本昌と同じ年に引退した西口文也(西武)も日本シリーズで勝てなかった投手として有名(7試合0勝5敗)。
なお、セリーグ最年長セーブ記録は中日の後輩である岩瀬仁紀が今年1000試合目の登板時に更新した(43歳10ヶ月)。山本昌が作ってきた数々の最年長記録は更新困難なものも多いが、これらの記録を脅かすような息の長い選手の登場に期待したい。
- #83 吉田義男(阪神タイガース)
- 背番号83は第3期監督時代のもの。この時、FAで某選手を獲得しようとして、
「縦縞を横縞に変えても……」
との名文句を残している。
第2期監督時代の1985年に球団初の日本一を達成したが、この時のいわゆる「バックスクリーン3連発」は阪神ファンにはたまらないのではないだろうか。
現役時代は遊撃手として活躍し、「牛若丸」と呼ばれた。
吉田義男といえばなんといっても守備に定評があり、これまた守備が上手いと定評のある同じく遊撃手だった広岡達朗からも一目置かれているほどで、二塁手・鎌田実、三塁手・三宅秀史と組んだ内野陣は史上最強と呼ばれたそうである
(なお、一塁手については遠井吾郎だったりしたので、「史上最強の内野陣」には一塁手は含まれていないと考えるよりなさそうである)。
足も速く、1954年、1956年と2度の盗塁王を獲得しているほか、打撃についても1955年には最多安打の記録を有している。とにかく三振が少なく、金田正一が対戦を嫌がっていた、との話もある。
なお、背番号自体は現役時代の23、第1期監督時代の1、第2期監督時代の81、第3期監督時代の83と変化している。ちなみに、阪神の23番は、第2期監督を退任後の1987年に永久欠番とされているが、吉田の現役引退後は実は誰もつけていなかった番号である。
第2期監督退任後に、フランス代表監督を務めたことがあり、そのため「ムッシュ」とも呼ばれ、フランスでも野球・ソフトボール連盟の名誉会員に選ばれている。
日本でも野球殿堂表彰を受けており、日仏両国でこのような栄誉を受けているのは吉田ただ一人である。
- #82 小笠原道大/井端弘和(中日ドラゴンズ/読売ジャイアンツ)
- 2013年オフ。
この年100試合出場ながら.236、本塁打1と打撃が不調だった井端は来季契約で大幅な年俸ダウンを提示され、自由契約を選択。その後巨人と契約合意した。
一方、この年わずか22試合の出場、.250、本塁打1に終わった小笠原。出場機会のある他球団への移籍を模索した結果、FA宣言により中日へ移籍することになる。ちなみに井端・小笠原両者の移籍は同日(11月26日)に両球団から発表され、実質交換トレードのような入れ替わりとなった。
巨人時代の井端は主に二塁手・遊撃手の控えとして活躍したが、2015年オフに同級生の高橋由伸が引退し監督に就任するのに伴い、「高校時代からの憧れだった由伸が引退するなら自分も引退する」と判断し、現役を引退し巨人コーチに就任する。現役通算1912安打で2000安打まであと88残しての引退であった。
なお、同じ年に巨人で引退した谷佳知は現役通算1928安打で2000安打まであと72安打であった。
中日時代の小笠原は2014年には代打の切り札として活躍し、少ない打席ながらも打率.301を記録。しかし2015年は出場機会が減り、アテネ五輪・2006WBCで日本代表としてともに戦った和田一浩、監督兼任だった谷繁元信、そして50歳となった山本昌とともに現役を引退し、中日二軍監督に就任した。
2013年オフに入れ替わりで移籍し、2016年から引退した球団で井端、小笠原とも指導者となった。奇しくも背番号が両者とも 82 である。
なお井端は高橋監督退任に合わせ今オフをもってコーチを退任。
来年より名古屋・東京のメディアを中心に野球解説者として活動する。
小笠原二軍監督は引き続き中日二軍を率いる。
ウエスタンリーグでは2年連続2位の後今季は最下位(5位)であったが、ファームの成績よりもまず近い将来に世代交代が必要になるであろう外野陣や今季低迷の大きな要因となった投手陣を中心に、今後のチームを担う若手の育成を中日ファンの中の人として期待したい。
- #81 肘神神社(岐阜県高山市)
- 活躍を期待されて入団したのにケガに泣く選手のなんと多いことか。
なかでも投手に多いのが「ひじ」のケガです。
ひじといっても、関節の中ではがれた軟骨のカケラなどが動き回って痛むいわゆる「ネズミ」という比較的軽いものから、靭帯断裂という重大な負傷まで症状は多種多様。
※治療法や全治までの期間については、お近くのヤクルトファンにお尋ねください
2018年 8 月 1 日、全国で唯一「肘」の神様を祀った肘神神社が岐阜県高山市に建立され、さっそくプロ入団予定の選手も肘の健康を願って参拝しています。
手術しすぎてもう右肘に移植できる靭帯が残っていないとお悩みのヤクルトスワローズ・館山選手のお越しをお待ちしております。
アノマリーもケガなくおうちに帰るまでがアノマリーですよ!
(とってつけた感)
- #80 イチロー/初芝清/田中幸雄
- 1995年のパリーグは投高打低で、本塁打王は小久保裕紀(ダイエー)の28本、そして打点王は 80 でイチロー(オリックス)、初芝清(ロッテ)、田中幸雄(日本ハム)の3人で分け合うことになった。
シーズン最多打点80は2リーグ分立後、2018年時点で最も少ない記録であり、3人で打点王を分け合ったのも史上唯一である。
この年のイチローの打順は序盤に2番で5試合、3番に12試合で出場したことはあるが、残り117試合はすべて1番、しかもすべて先発フル出場であった。シーズン最多安打のNPB記録(当時)を残した前年に引き続き最多安打・首位打者を2年連続で獲得したが、全試合フル出場で首位打者を獲得したのは1969年の王貞治(巨人)以来で、それだけ他を寄せつけない数字であったといえる。
さらにこれに加えて盗塁王(49盗塁)、最高出塁率(.432)のタイトルも獲得した。本塁打も25本打っており、前出の小久保と3本差のリーグ3位で本塁打王も射程圏内であった。
ヤクルトとの日本シリーズでは野村克也監督の徹底したインハイ速球攻め宣言の挑発に乗ってしまい5試合で19打数5安打1本塁打(.263)と抑え込まれたが、
「ほとんど1番で出場して打点王」
「打点王と盗塁王を同時に獲得、もしかしたら三冠王まであったかもしれない」
という、この年はイチローのキャリアの中でも特筆すべき記録を残している。
バレンタイン監督(第1次)のもとで2位に躍進したロッテでは、初芝はフリオ・フランコの後の5番を打つことが多かった。
ロッテのシーズン最終戦のあった9月27日時点で打点は初芝と田中が79、イチローが78。このタイトル争いの状況に加えて、初芝にはシーズン打率3割もかかっていた。
打率3割と打点王争いのどちらをとるかの状況で初芝は打点王争いをとり、「打率3割を切りそうなら交代させる」という首脳陣からの申し出を断った。結果は3打席連続凡退からのソロ本塁打、打率.301でシーズンを終えることができ、また打点王も獲得した。
初芝が現役中に獲得したタイトルはこの年の打点王のみだが、現役時代は数々の「伝説」を残す(それはまた紹介の機会があれば…)。引退後は野球解説者、社会人野球の指導者として活動しており、2014年からは社会人野球のセガサミー硬式野球部の監督を務める。
前年までの大沢啓二監督の下では外野手を務めていた田中だが、この年から監督に就任した上田利治により、本職である遊撃手に再コンバートされ、終盤の4試合(3番)を除き126試合で4番に座った。
この年は特に打撃が好調で5月には打率.371、5本塁打、18打点で月間MVPを受賞。最終的に打率.291でこの年が打率のキャリアハイであった。その後2007年に通算2000安打を達成して引退した。引退後は野球解説者、指導者として活動し、一昨年まで日本ハムの二軍監督を務めていた。
なお、2000安打達成者でシーズン打率が3割に到達していないのは柴田勲(巨人)と田中のみ…なのだが、実は昨年引退した荒木雅博(中日)の打率キャリアハイは2006年で464打数139安打、小数第4位の四捨五入で.300。実際は.2995…で3割を割っており、厳密にいえば打率3割に到達したシーズンはなかったともいえる。
また、谷繁元信(横浜→中日)のシーズン打率キャリアハイは1996年の.300だが、380打数114安打でちょうど3割であった。いずれの例も打撃以外の持ち味でキャリアを積み重ねた結果で達成したと言ってもよいだろうか。
以上、本日のカウントダウンは夢のある記録のいろいろでお送りしました。皆様もいい夢が見られますように。www.sponichi.co.jp
https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0710/kiji/K20091...https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0710/kiji/K20091001Z00003440.html
#79~#70
- #79 柳沢慎吾
- 19 79 年、ドラマ「3年B組金八先生」第1シリーズに桜中学校生徒のエキストラ(クレジットなし)、そして楓中学校の不良生徒役(ただし名前を「柳沢順吾」と誤ってクレジットされた模様)として出演しテレビドラマデビューする。
ちなみに、この第1シリーズのロケ地となった足立区立第二中学校は2004年に廃校になり、校舎をそのまま利用する形で東京未来大学が開校した。
色々な意味で多くの人々にとって思い出深い場所であろう。
その後「ふぞろいの林檎たち」などで俳優として活躍しながら、バラエティ番組では告白して玉砕した後に発した「あばよ!」や、「いい夢見ろよ!」などの台詞や数々のモノマネなどでタレントとしても人気となる。
柳沢慎吾のモノマネは特定人物を対象にしたものもあるが、あるシチュエーションに登場する人物をすべて1人で演じ切るモノマネ芸が有名。
放送があると仕事やプライベートの予定を調整してまで見入るという「警視庁24時」とともに、こちらも夏は中継に見入るという選手はもとより、応援、実況、解説、各スタッフ、サイレン、果ては試合を中継しているNHKニュースのキャスターまでも演じてしまう高校野球のモノマネが圧巻。
2008年には1人20役のモノマネだけを収録したCDアルバム「柳沢慎吾のクライマックス甲子園!!」をリリースした(中の人は買いました)。
2013年以降、毎年のように横浜スタジアムのDeNA戦で始球式を務めるが、DeNAの選手も巻き込み8分ほど時間をかけてこのモノマネを披露しながら投球する「日本一長い始球式」となっており、この影響で試合開始時刻が予定より大幅にずれ込むのももはや風物詩となっている。
始球式の際に着るユニフォームは、名前にちなみ背番号45である。
なお、2017年は横浜スタジアムでは出番がなかったが、柳沢本人が故・石立鉄男が出演していたエースコックわかめラーメンの「復刻」CMに出演していた関係もあってか、エースコックがスポンサーとなっていたオリックスvs阪神のオープン戦(京セラドーム大阪)で「日本一長い始球式」を行った。
今年も名人芸の披露が期待される。
- #78 鈴木啓示
- NPBの通算記録やシーズン記録を見ていると、まあとても更新不可能だろう、と思われる記録がありますね。
以下、通算記録の話をします。
現在の通算最高記録で行くと、
王貞治の868本塁打
福本豊の1,065盗塁
金田正一の400勝、4,490奪三振
なんてのはまず更新不可能と思われます。
同様にまず無理だろう、と思われていたのが野村克也の3,017試合出場でしたが、これは谷繁元信が3,021試合出場して通算最高記録を更新しています。
また、投手でまあこれは更新は難しかろう、と思われていた記録としては、米田哲也の949登板、というのがありましたが、こちらも岩瀬仁紀が1,002登板して塗り替えています。
一方、打席数について、野村克也の11,970打席が今のところ通算最高記録ですが、金本知憲が10,431打席を記録しており通算5位だったりしますので、選手寿命が延びていることを考えると、打席数や打数(これも野村克也の10,472打数が通算最高)はいずれ更新される日が来るのかもしれません。
野村克也については、378併殺打、113犠飛、という通算最高記録の方が更新困難かもしれませんね。
また、NPBに限れば通算最高安打数は張本勲の3.085安打ですが、イチローはNPBでは1,278安打でも、MLBで3,089安打しており、しかも2019年は現役として開幕戦に来日しますから合計の数値はまだまだ伸びる可能性があります。
このように、時々、その記録が破られたりするのも興味深いもので、そうすると、従前の記録や記録保持者にスポットがあたるのもいいことですね。
さて、投手として今後更新不可能と思われる通算最高記録を2つ持っているのが、鈴木啓示。監督としてはものすごく低評価なこの方ですが、リーグのお荷物といわれた近鉄に入団して、1966-1985年を近鉄一筋、歴代4位の通算317勝(これだって今後無理でしょう、実際、現時点におけるNPB最後の300勝投手です)をあげた大投手です。
そのうちの、まず更新不可能な記録が通算560被本塁打ですが、もうひとつの記録が通算無四球試合 78 です。鈴木啓示の通算完投数が340(歴代3位)ですので、完投すれば5試合に1試合以上は無四球だった計算になります。
投手の役割分担が進み、球数制限のある現在ではもう更新不可能といっていい記録でしょう。
鈴木啓示の場合、これでも入団当初は勢い任せに投げていて、コントロール重視に変わったのは後年の西本幸雄監督就任以降だ、という話があるのですが、別に入団2年目でも無四球試合10を記録しており(この年のリーグ最高)、ここでいうコントロールとは相当細かい出し入れだったことが伺えます。
ちなみに、江本孟紀はプロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転じてコントロール中心の投手となった、と自称していますが、通算完投数78に対して通算無四球試合は2、です。江本孟紀のいうコントロールとは、ストライクゾーンへ投げられるかどうか、という話としか思えませんが、実はこのお方も通算ボーク数24というNPB記録をお持ちです。しかし、これは案外と更新される可能性のある記録かもしれません。
将来更新が期待される?投手の一人は、広島の岡田明丈で、2016-2018年の3年間でボーク7を記録しています。
- #77 西村徳文(オリックス・バファローズ)
- 現役時代の愛称「走る将軍」は、前副将軍・水戸光圀公をテレビドラマ「水戸黄門」で演じていた同姓の俳優・西村晃に由来する。
1981年ドラフト5位でロッテに入団。俊足ぶりはプロ入り前から評価が高く、プロ初出場も代走であった。
2年目から足を生かすためスイッチヒッターに転向し、この年の終わりに二塁手のレギュラーとなる。
1985年、パリーグ二塁手ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞。
1986年から4年連続でパリーグ盗塁王(1987年は大石第二朗(近鉄)と同率)。
1989年の故障復帰後は、チーム事情から外野を守ることが多くなる。
1990年、スイッチヒッターとしてパリーグ初の首位打者。さらに外野手としてベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した(内野手・外野手双方でのゴールデングラブ賞受賞もパリーグ初)。
1997年現役を引退し、翌年からロッテでコーチを務める。
2004年からボビー・バレンタイン監督のもとでヘッドコーチを務め、バレンタイン監督が退任した2009年オフに後任の監督となる。
2010年シーズンに掲げたチームスローガンは「西なんとかとは言わず名前だけでも覚えて帰ってください」ではなく「和」。チームのシーズン成績は3位であったが、クライマックスシリーズで西武、ソフトバンクを次々と撃破し日本シリーズに進出。
ロッテでは選手時代の先輩で選手時代は行動を共にすることも多かった落合博満率いる中日と対戦し、4勝2敗1分で下して監督就任1年目で日本一となる。
2011年最下位、2012年は序盤は首位だったものの5位に終わり監督を退任、選手・コーチ・監督として31年連続で在籍したロッテを去る。
2015年オフ、同じ宮崎県出身で現役時代から親交の深い福良淳一のオリックス監督正式就任に伴いヘッドコーチに招聘される。背番号は 77 。
2018年オフに福良監督が退任・フロント入りし、西村が監督に昇格する。
なお福良・西村両者とも顔と雰囲気がよく似ていると指摘されており、監督が交替したことも実は気づかれていないのではと危惧する者もいるとかいないとか。
西村監督は、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属しており(ただしスポーツ選手のマネジメント契約)、関西在住で京セラドームでの観戦もたまにする中の人としてはチームの強化とともに存在感あるチームの雰囲気づくりにも期待したい。
- #76 佐々木信也(大毎オリオンズ)
- 1956年に高橋ユニオンズに入団。
新人でシーズン154試合フルイニング出場(飯田徳治、杉山光平(ともに南海)と同率)のNPB記録をつくる。この年のパリーグは8球団あり、現在のNPBは年間140試合強であることを考えてもこの記録の更新もよほどのことがなければ困難であろう。
新人の全試合フルイニング出場はその後長嶋茂雄(巨人、1958年)、徳武定祐(国鉄、1961年)、源田壮亮(西武、2017年)の3名が記録する。
翌年、大映スターズと合併した大映ユニオンズ、その翌年に毎日オリオンズと合併した大毎オリオンズ(これが現在の千葉ロッテマリーンズの前身)に在籍するが、徐々に出場機会を減らす。
1959年に翌年から監督に就任する西本幸雄の判断で大毎を解雇され、現役を引退した。
大卒後の現役生活4年、26歳での引退であった。翌年から野球解説者として活動を始める。
そして19 76 年から始まったフジテレビ「プロ野球ニュース」の総合キャスターに就任(月〜金に出演)。
元選手で野球解説者としても活動していたが、「プロ野球ニュース」では司会に徹し、各球場の試合の結果については担当のアナウンサーと解説者が詳細に伝えながら佐々木がフォローしてゆくスタイルをとった。
本拠地の地元でもなかなか中継がなかったパリーグの試合も詳しくとりあげられ、当時地方在住で年に1度あるかないかのオープン戦でしかパリーグとの接点がなかった中の人にとっては貴重な情報源であった。
近所の球場のオープン戦に観戦に行った夜にホームランの映像から外野スタンドの自分を探すなどしていたのも思い出である。
ほか、シーズンオフの様々な番組内企画も佐々木や番組スタッフの発案で行われており、たとえば年末年始に関西テレビで放送されている古田敦也を中心とした昭和40年会の企画も元をたどればこの番組が源流である。
1980年代には夜放送した分を翌朝再放送していた時期もあり、朝型の視聴者はもちろんのこと、2回同じニュースに見入る熱心な視聴者もいたとかいなかったとか。
フジテレビ地上波での「プロ野球ニュース」の放送は2001年3月で終了したが、同年4月からCSでの放送を始め現在も続いておりやきう民の情報源のひとつとなっている。
佐々木はキャスターとしてCS版「プロ野球ニュース」に再登板し2008年まで務めた。
- #75
- 19 75 年4月3日生まれで開幕後まもなく44歳を迎える上原浩治(巨人)は、今年NPB現役最年長選手となる。なお、福浦和也(ロッテ)も同い年(19 75 年12月14日生まれ)で現役続行が決まっている。
では過去の現役最年長投手の歴史はどうだったか。2000年以降、現役最終年の結果とともに振り返ってみる。以前カウントダウンで触れたことのある選手の分は簡潔に…
2017〜2018 岩瀬仁紀(中日) 1974年11月1日生まれ 48試合35投球回2勝0敗3セーブ10ホールド 防御率4.67
現役最終年もリリーフ登板で結果を残す。現役通算1000試合目の登板をセーブで飾り、セリーグ最年長セーブ記録を更新した。
2016 三浦大輔(DeNA) 1973年12月25日生まれ 3試合14.2投球回0勝3敗 防御率11.05
2014年からコーチ兼任。この年は若手投手の出番が増え、先発登板3試合のみ。3試合目がこの年のシーズン最終戦で、三浦の引退試合となった。防御率が跳ね上がっているのはこの引退試合で6.1投球回を投げ切り10失点という結果だったため。この試合ではDeNAの全選手が三浦の功績を讃えて背番号18を着用して試合に臨んでいる。なおこの年、DeNAは1998年の日本一以来の日本シリーズ進出を果たす。
今年からDeNAコーチとなり、再び背番号18を着ける。
2011〜2015 山本昌(中日) 1965年8月11日生まれ 2試合1.1投球回0勝0敗 防御率6.75
1試合目の先発登板時に左手指を負傷し2回途中で降板。2試合目が現役最後の試合となり打者1人限定で登板、NPB史上初の50歳での試合出場を果たす。
2004〜2010 工藤公康(巨人→横浜→西武) 1963年5月5日生まれ 10試合6投球回0勝2敗 防御率10.50
3球団にまたがり7年間にわたって現役最年長選手であった。この年かつての同僚だった渡辺久信監督率いる古巣に復帰。すべてリリーフ登板だったが、結果を残せずこの年限りで退団。1年間肩の治療とトレーニングに費やしオファーを待ったが、2012年に引退表明。ともに工藤にとって古巣であり、またかつての同僚が監督である西武vsソフトバンク戦(4月7日)で引退セレモニーを行った。
2015年よりその引退セレモニーにも立ち会った秋山幸二の後を継いでソフトバンク監督に就任。4年間で2回のリーグ優勝と3回の日本一に輝く。
2003 広澤克己(阪神) 1962年4月10日生まれ 37試合 打率.306 4本塁打15打点
この年は二軍暮らしが長かったがシーズン終盤に一軍に昇格。4番ファーストで先発出場する試合もあった。この年阪神は星野仙一監督のもとリーグ優勝を果たし日本シリーズに進出。ダイエーとの日本シリーズでは第1戦・第2戦で5番に座るが5打席連続三振。第7戦で代打出場し本塁打を放ったのが現役最後の打席となった。和田毅のチェンジアップが「止まって見えた」のを振ったら、気がつくと打球がスタンドに入っていて本塁打を打ったという確信がなかったとは本人の弁。この本塁打は現在も日本シリーズ史上最年長記録で、昨年の日本シリーズでは新井貴浩(広島)に記録更新のチャンスがあったが4打数無安打に終わり、この年限りで現役引退となった。
また、同い年の伊東勤(西武、1962年8月29日生まれ)もこの年に現役引退し、翌年より西武の監督となる。
2000〜2002 長富浩志(ダイエー) 1961年6月10日生まれ 26試合22投球回1勝2敗 防御率3.68
現役最後の年もリリーフで活躍した。前出の工藤や武田一浩らベテランとともに、若手時代の城島健司とバッテリーを組み配球を教えていた。王貞治監督からの信頼が厚かったが、王監督から直々に若手への世代交代を理由に引退を勧められ、選手を引退しコーチに転身した( https://dosports.yahoo.co.jp/column/detail/201811060019-spnavido )。
上原も福浦もまだ今年が最後とは限らない。
そして、今年は上原と2006WBC日本代表で共に戦ったイチロー(マリナーズ)も現役選手として日本に凱旋する可能性もある。
長く現役を続ける選手がどのように自分の年齢と、若手選手と、チームと向き合うのか、今後も見ていきたい。
- #74 チェン・ウェイン(マイアミ・マーリンズ)
- 2004年、当時スカウトであった同じ台湾出身の大豊泰昭の目に留まり中日に入団。この年のみ背番号 74 を着けた。
2005年にプロ初登板。ほぼリリーフでの登板で、8月7日の横浜戦で1点リードの延長11回裏を無失点に抑えプロ初セーブを挙げる。なお、延長戦に入ったのはこの年46セーブでNPB記録を達成した岩瀬仁紀による救援失敗のためである。この年の岩瀬の救援失敗はわずか3回で、内訳はvsソフトバンク1回、vs横浜2回であった。ちなみにこの試合、ソロ観戦がほとんどの中の人としては珍しく友達同伴で観戦していた。野球興味なしで現在音信不通のその友達は、今元気なんだろうか、そしてチェン・ウェインとだけ聞いて追加情報なしでどこの国の人と思っただろうと今になっても振り返ることがある…
2006年オフに右肘靭帯断裂のため手術を受け、翌年はリハビリに専念することもあり1年間育成契約。2008年に支配下選手に復帰するとシーズン途中から先発ローテーションの一角に食い込む。
2010年は初の2桁勝利となる13勝を挙げる。なお、打線の援護が少ない投手として有名で、規定投球回に達した投手の援護率(※)をみると2009年はセリーグワースト4位、2010年はワースト3位、2011年もワースト3位であった。2009年・2010年はいずれもチームワーストであったが、2011年はこの上にさらに援護の少なかったマキシモ・ネルソンがいた。
2011年オフに中日を自由契約となりMLB挑戦。オリオールズに移籍する。
2012年は12勝、2013年は故障で途中離脱したが7勝、2014年は16勝、2015年は11勝と結果を残す。2016年にFAとなり5年総額8000万ドルの大型契約でマーリンズに移籍したが、故障の影響か5勝→2勝→6勝と低迷している。復活を期待したい。
※援護率データは http://www.kazmix.com/ 、および http://baseballdata.jp/ を、2005年の岩瀬のデータについては http://classicstats.doorblog.jp/archives/51838710.html を参照した。
- #73 梨田昌孝
- 背番号 73 は近鉄コーチ・監督時代のもの。
現役時代の背番号は52→8。日本ハム監督時代は88、楽天監督時代は99。
島根県立浜田高等学校から、1971年にドラフト2位で近鉄入団。以後、現役17年を近鉄一筋で過ごし、通算1323試合、3444打数874安打、113本塁打を記録。
長くレギュラーであった割には案外と打数が少ないが、これは近鉄が、梨田と有田修三の2人の捕手を併用していたためである。このコンビは「ありなしコンビ」と呼ばれ、どちらも他球団に行けばレギュラー確実、といわれた。この2人が近鉄でチームメートだった期間は、13シーズンに及ぶ。その後も近鉄は捕手併用という戦術を取っていたため、近鉄で規定打席に達した捕手は、1985年の梨田が最後である。梨田は投手に気持ちよく投げさせるタイプの捕手、有田は強気なリードで、割とインサイドワークは対照的である。
近鉄の大エース・鈴木啓示は意外なことに強気なリードの有田修三とのコンビを好み、大半の試合を有田とバッテリーを組んでいたが、300勝達成時の捕手は梨田である。
守備面ではとにかく強肩で、あらかじめ右足を引いて構えて送球にかかる時間を減らす、などの工夫も相まって、福本豊全盛時にも関わらず、5割を超える盗塁阻止率を記録したことがある。打撃面ではなかなか勝負強く、「コンニャク打法」と呼ばれた、独特の構えで有名であった。
最後の出場は1988年10月19日の、「10.19」として語り継がれるダブルヘッダー第1試合で、9回表に代打で決勝打を放っている。
球団としての近鉄の最後の監督であったが、シーズン最終戦の前日に近鉄の選手に向けて「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」という名言を残している。
この他、
自宅を新築しようとしたら遺跡が出てきた
とか、
近鉄監督就任時、監督・コーチを男前トリオで売り出そうとしたとか(あとの二人は真弓明信・小林繁)
何かとエピソードの多いお方である。
現在は甘いマスクで、温厚な、ダジャレとばすおっちゃん、という印象であるが、近鉄二軍監督時代はKOされて荒れていた前川勝彦を殴り倒す、という武闘派の一面も見せている。(関根潤三といい、藤田元司といい、高田繁といい、やきう人は温厚そうな人が結構怖い……。)
近畿にお住いの方は、「京橋グランシャトー」のCMで、その男前ぶりが堪能できる。なお、梨田本人が「♪京橋は ええとこだっせ〜」と歌っているわけではない。
- #72 マーク・クルーン/香田勲男(読売ジャイアンツ)
- 2005年、牛島和彦監督が就任した横浜ベイスターズに入団。
160km/hの速球は投げられるが制球難のため獲得に慎重な意見もあった中、修正可能と牛島監督が判断しての入団となった。
実際に監督の矯正が効いてコントロールが改善し、当初は中継ぎ起用であったが、当時MLB帰りで抑えを務めていた佐々木主浩の離脱と佐々木本人の後押しもあり、佐々木に代わる抑えとして配置転換された。
抑えとして2005年26セーブ、2006年27セーブ、2007年31セーブを記録。
また2005年7月19日のvs阪神戦で、NPB史上初の160km/h超えとなる球速161km/hを記録。なお、2016年10月16日のパリーグCS第5戦で大谷翔平(日本ハム)がvsソフトバンク戦で記録した165km/hが現在のNPB記録である。これはDHでスタメン出場後、9回表からDHを解除し投手として登板した時に記録したもので、三者凡退でポストシーズンではあるがプロ初セーブも付いた。
さてクルーンの話に戻ると2007年オフに巨人へ移籍。
2008年は自身の最速記録を更新する162km/hの球速を記録(6月1日、vsソフトバンク戦)。そして球団記録となる41セーブを記録し、自身初のセーブ王となりチームの優勝に貢献。
2009年27セーブ、2010年も25セーブを記録するが打ち込まれる場面も多くなりこの年限りで巨人を退団。米球界に復帰したが2012年に引退した。
NPB時代のクルーンの背番号は横浜・巨人時代を通じてもうMLBでは着用できない42であった。しかし2009年9月1日のvs横浜戦でユニフォームを忘れてしまい、当時の一軍投手コーチだった背番号 72 の香田のユニフォームを借りて出場。
抑えはしたものの自身のユニフォーム忘れの失態に腹を立てていた様子。ユニフォーム忘れにより他の選手やスタッフのユニフォームを借りて試合に出場するケースは過去何度かあるが、それはまたの機会に。
- #71 植村義信(毎日オリオンズ)
- 1957年、9イニングでの最少投球完投( 71 球)達成者。
すべて三振で27個のアウトを取る場合でも81球を要することになるため、71球での完投の凄さがおわかりいただけるだろうか。
この日の植村の投球は相手チームの早打ちにも助けられ、2安打4三振無四球の1失点。勝利投手となった。
国際大会の球数制限が当たり前となった昨今、こういう投手が居てくれたらどんなに楽なことか。www.sponichi.co.jp
https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0803/gazo/G20090...https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0803/gazo/G20090301Z00002900.html
- #70 中日ドラゴンズ 背番号70の系譜
- NPBにおける支配下登録選手(一軍の公式戦に出場登録できる選手)は1チームにつき 70 名までと上限が決まっている。その意味で背番号70を「支配下登録選手の中で最も『後がない』選手の背番号」と解釈される場合もある。2004年の落合博満監督就任後の中日はこのような意味合いで背番号70を着けてきた選手がいた(外国人選手が着ける年もあり)。
中里篤史(2004〜2005、2009)
2000年ドラフト1位で入団した投手。2002年春季キャンプ中に右肩を大怪我、2003年オフにも右肩を故障。2004年に背番号28から70に変わる。
2005年終盤に4年ぶりに一軍登板しリリーフでプロ初勝利を挙げ、翌年から今後を期待され背番号18に変更する。
2006年は後半からリリーフで登板。日本ハムとの日本シリーズでも登板したが、第3戦でフェルナンド・セギノールを中里一番の武器である150km/h前後のストレート連発で打ち取った後、稲葉篤紀に裏をかいたつもりであったろう初球のカーブをスタンドに運ばれ追加点を許した(稲葉はカーブ打ちが得意だったので、この配球は…)。第5戦では現役最後の打席となったSHINJOから3球ストレート勝負で空振り三振を奪った。
2007年に左肘を骨折し一軍登板なし。2008年は開幕一軍であったが活躍できず、翌年から背番号が再び70に戻るが一軍でほとんど出番がなく戦力外。2010年巨人に移籍するがほとんど一軍では投げられず2011年引退。その後巨人のスコアラーとなる。
鳥谷部健一(2006)
1997年ドラフト3位で西武に入団した投手。高校時代から右手の血行障害に悩まされていたが5年目の2002年プロ初登板。
2003年にプロ初勝利。
西武ドーム独特の蒸し暑さの中、全身けいれんのまま何とか5回を投げ切っての勝利だったという。
2005年西武を戦力外となり、翌年中日に移籍するが一軍での登板機会はなく1年限りで再び戦力外となる。
翌年以降クラブチームでプレーなどしたが、その後千葉県で化学プラント・石油プラントのメンテナンスの仕事に従事。2011年の東日本大震災では作業現場近くで発生した石油プラントの爆発事故に巻き込まれる寸前だったという( http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20120404/bbl1204040735000-n1.htm )
三澤興一(2007)
1996年ドラフト3位で巨人に入団した投手。早稲田大学時代にアトランタ五輪日本代表に選ばれる。先発リリーフを問わず便利屋的に活躍した。
2001年途中にトレードで近鉄に移籍し、リリーフで近鉄最後のリーグ優勝に貢献。
2004年にトレードで巨人に復帰したが、怪我で登板数が少なくこの年限りで戦力外。翌年ヤクルトに移籍するが2005年は怪我で2試合の登板にとどまり、2006年も投げられず戦力外に。
翌年中日に入団するが一軍登板なくこの年限りで引退。現在は巨人二軍投手コーチ。
佐藤充(2010)
2003年ドラフト4位で中日に入団した投手。顔がタレントのKABA.ちゃん似であったことからあだ名は「カバちゃん」。
2005年プロ初勝利。
2006年前半戦は先発で活躍し、この年リーグ優勝した中日のシーズン前半独走の原動力のひとつとなる。しかし2006年後半は調子を落とし、日本シリーズは出場資格があったものの出番がなかった。
2007年以降は怪我で登板機会が激減。
2010年に入団当初から16だった背番号を70に変更。この年戦力外となり、2011年に楽天へ育成選手として移籍するがこの年限りで引退。現在は中日スカウト。
谷哲也(2014〜2017)
2007年大学・社会人ドラフト3巡目で中日に入団した内野手。
2年目の2009年にプロ初出場、4年目の2011年、シーズン最終戦でプロ初安打を記録。
2014年に入団当時から着けていた背番号36を、巨人からFA移籍してきた小笠原道大に譲り70を着ける。この年プロ初打点を記録。一時死球による故障離脱があった荒木雅博に代わり二塁手でスタメンとなり、主に打撃で活躍した。
2015年は1試合の出場に留まる。2016年は二塁手以外にも三塁手、一塁手も守り(谷が一塁に入る場合、この年に入団したダヤン・ビシエドが左翼手に回った)、代打打率.292と打撃でも結果を残す。
2017年、プロ10年目にして初本塁打を記録。
2018年には背番号が58に変更になるも一軍で出番がなくこの年限りで引退(この年70を着けたのはチーム唯一の2桁勝利を記録したオネルキ・ガルシア)。中日の球団職員となる。なお、2004年以降では唯一野手で背番号70を背負い、4年間と最も長く70を背負った選手であり、また背番号70で中日を退団しなかった唯一の日本人選手でもある。
なお、2011年・2012年はエンジェルベルト・ソト(2012年で退団しDeNAへ移籍)、2013年はダニエル・カブレラ(2014年は99に変更、この年で退団)が70を着けていた。2019年は新外国人左腕のエンニー・ロメロが70を着ける。阪神に移籍したガルシアに続く活躍を、中日ファンの中の人として期待したい。
#69~#60
- #69 肘井竜蔵(千葉ロッテマリーンズ)
- 2013年育成ドラフト1巡目でロッテに入団。育成選手時代の背番号は122。捕手として入団したが、打撃力を買われて外野手として出場することが多かった。
プロ2年目の2015年に支配下登録選手となり、背番号が 69 に変更されオープン戦の活躍から開幕スタメンを勝ち取った。しかし、9月21日のvs西武との二軍戦で顔面に死球を受け鼻骨と篩骨(目の下、鼻の奥の骨)を骨折。2度の手術を受けたが、選手として復帰を急ぐため顔には整形用のプレートが埋め込まれたままになっていた。
また、この大怪我により嗅覚がなくなり、手術後も戻っていないという。1ヶ月弱の入院生活の後、復帰に向けてトレーニングを始めた。
2016年に外野手登録に変更。一軍では9試合に出場。二軍ではイースタンリーグ史上9人目のサイクルヒットを達成した。
2017年は18試合出場したが、2018年は一軍での試合出場がなく戦力外となり、トライアウトも受験せず現役引退を決意。一般企業への就職活動を始めていたが、その際にかねてから肘井の大怪我に屈しないなど前向きな人柄を高く評価していたスタッフから声をかけられ、日本プロ野球選手会事務局に入局した。
引退した選手のセカンドキャリアのサポートやイベントのサポートなどを行う仕事で、今後も野球を支えてゆく。
- #68 根本陸夫(福岡ダイエーホークス)
- 2019年は根本の没後20年という年でもある。根本のエピソードは本1冊にも収まり切らないほど枚挙に暇がないが、今回は選手・チームに対する洞察眼とチームの育成に関する話題を中心にとりあげる。
1952年、近鉄に捕手として入団。2年目・1953年の110試合出場、打率.206が選手としてのキャリアハイだったが、リードの上手さは定評があった。旧制中学時代からの友人で近鉄で選手としても同僚であった関根潤三ともバッテリーを組み、関根はこの年自身初の2桁勝利となる10勝をあげた。なお、関根はその後も投手として活躍するが、肩の怪我で満足に投げられなくなると根本の薦めで野手に転向し結果を残した。根本自身もその後は肩の怪我で出場機会が激減したが、選手を見る洞察眼や野球の知識が一目置かれ、投手のローテーションを決めるなど監督を補佐するコーチ的な役割を選手時代から果たしていた。1957年現役引退。
引退後は近鉄の球団職員・コーチを歴任(〜1966年)。近鉄がNPB記録であるシーズン103敗を喫した1961年はスカウトを担当しており、そこで見いだした選手のひとりが土井正博である。根本は高校時代の土井を外野の陰からひっそり観察しつつ、土井の家に出向いて母親に「選手として成功しなくても親会社などで面倒を見る。他球団のスカウトには大学進学すると伝えるように」と伝えたという。土井はプロで稼いで母親を助けたいと高校を中退し近鉄に入団した。その後も根本はこのような選手の事前の囲い込みや地道な交渉を度々行い、有力選手の他球団のドラフト指名などを巧妙に避ける一方で、選手の家族や恩師などの関係者との人脈づくりから選手獲得を進めてきた。
近鉄退団後は友人の会社を手伝うつもりだったが、1967年から広島のコーチとなる。広島コーチ/監督時代と後述のクラウン監督時代は背番号 68 を着けた。
19 68 年に広島監督に就任。広島OBでもなければ出身地も広島県外(根本は茨城県出身)という完全な「外様監督」は球団初であった。ちなみにこの年から球団名が「広島東洋カープ」と変わって球団経営を東洋工業(現在のマツダ)が一手に行うようになり、オーナーから負けが込んでもよいので強いチームの基礎づくりをと要請され5年計画でチーム強化に取り組み始めた。阪神から山内一弘を移籍させ、若手の生きた手本となるベテラン選手の役割を任せた。また、陸上競技の専門家を広島大から招いてトレーニング方法を変えたり、近鉄からトレーナーを呼び寄せ選手の健康管理・生活管理も厳しく行ったりした。
監督就任1年目で広島を球団史上初のAクラスに導くが、当時若手選手だった衣笠祥雄の目からは「強いチームになったわけではなく、根本監督最初の2年間は選手やコーチの力を見極めていた時期だったのでは」と映っていたとのこと。根本は捕手として入団した衣笠を一塁手にコンバートし、肉離れで満足に走れなかった衣笠を殴りつけ「怪我しているなら休め」と叱ったという。この経験が「怪我している素振りすら悟られないように試合に出続けることが大事」と衣笠の意識を変え、のちに「鉄人」と称され連続試合出場世界記録をつくる契機となったと語っている。
1970年関根を1年限定との約束でコーチに招聘し、根本の近鉄コーチ時代の選手で広島にコーチで呼び寄せた小森光生と早稲田大学時代に三遊間を組み、現役晩年の関根が移籍した巨人で同僚でもあった広岡達朗をコーチに招聘した。また、若手選手の米国派遣、いわゆる「野球留学」をNPBで初めて行ったのが根本監督時代の広島で、衣笠のほか山本浩二、三村敏之らがその第一弾となった。根本は5年計画で広島のチーム強化に取り組むつもりであったが、5年目の1972年6月に成績不振のため休養。この年限りで監督を退任した。その3年後の1975年に広島は球団初のリーグ優勝を果たした。
1977年オフ、ドラフト指名した江川卓に入団を拒否され、監督人事が難航していたクラウンライター・ライオンズの監督に就任。監督の打診は根本にとっては関根とともに学生時代からの友人で、当時俳優をしていた安藤昇から話が回ってきたという。翌年オフに国土計画がライオンズを買収し西武ライオンズとなり、本拠地が福岡から所沢に移転するが引き続き監督を務める。西武初のドラフト会議で森繁和を1位指名し、4球団競合の末獲得。阪神から田淵幸一、古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得した。こうして全国区で人気のある選手、そして若手の見本となるベテラン選手を集めていった。
根本は1980年オフに監督を退任し、後任に巨人監督を辞任したばかりの長嶋茂雄、または現役を引退したばかりの王貞治のどちらかを西武の監督に招聘しようとしていたが両者とも断られ、1981年も引き続き監督を続投しこの年のオフに監督を退任。球団管理部長という肩書きで実質的なGMの立場で引き続き西武に在籍(〜1992年)。自身の後任監督に「勝つための野球を知っている」という理由で、ヤクルトを1978年に球団初の日本一に導く実績をつくった広岡を、ヘッドコーチには広岡とともにコーチとしてヤクルトを日本一に導いた森祇晶(1986年より広岡の後任で監督に就任)を招聘した。また、この年のドラフトで社会人行きを公言していた工藤公康を6位で指名。根本が工藤本人と家族を説得し、入団にこぎつけた。根本が監督を退任した翌1982年、西武は所沢移転後初のリーグ優勝を果たし、中日との日本シリーズを制し日本一となった。
根本の発言は難解で、マスコミ相手など対外的な発言でも煙に巻くようなものが多かったが、組織内に対する発言も意図が読み取れないものが多かったという。根本監督の下で選手・コーチとして仕えた伊原春樹は、コーチ時代にフォームの指導などを巡って、選手ではなく伊原コーチに怒りの矛先を向けよく衝突したが、伊原コーチも根本監督の指導方針の意図が読めなかったことが原因と語っている。伊原はその一方で「コーチはあまり教えず、選手をよく観察せよ」「すべてメモしておけ」という根本の指導を守り、根本と選手の指導で衝突した際も、残したメモと根本の発言に矛盾を指摘し言い負かしたこともあるという。
1990年オフ、根本はこの年ヤクルトで現役を引退した栗山英樹を西武に招聘しようとしていたが、すでに野球解説者・スポーツキャスターとしての仕事が決まっており栗山は西武球団まで出向いて断りを入れ、根本も受け入れてマスコミで勉強してくるようにと栗山を送り出した。栗山は2012年に日本ハムの監督に就任するが、奇しくも球団幹部から監督を打診された際には「根本陸夫になりませんか?」と口説かれたそうである。栗山は7年間でAクラス5回、リーグ優勝2回、日本一1回と結果を残し、今年8年目のシーズンを迎える。
1993年、奇しくも西武時代に選手として獲得した田淵の後任としてダイエー監督を2年間務める。広島で指導者として同僚であった上田利治が監督就任ということで球団内でも準備が進んでいたのだが、球団内の事情で一転し根本が監督となった。監督時代から球団専務を兼任していたが、1994年の監督退任後は専務に専念し、西武時代と同様にGMのような役割を果たす。自身の後任監督には西武時代に一度断られた王を招聘した。
1999年1月、前年にスクープされたスパイ疑惑の影響もあり球団内が大混乱の中、根本はダイエー球団社長に就任。前年に現役引退し野球解説者として取材に訪れていた落合博満に、落合はいずれ監督としてお呼びがかかるから、その時は森繁和をコーチに呼ぶと面白いと薦めた。落合と森は社会人時代にアマチュア日本代表で同僚であったなど以外接点は少なかったが、実際に落合は2004年に中日監督に就任し、前年横浜コーチを退任したばかりの森を中日に招聘し、8年間で優勝4回日本一1回、すべてAクラス入りの実績を残した。一方、森は根本から「50歳を過ぎたらネクタイを締めて編成に入れ」と言われていたが、2016年オフに63歳にして中日監督に就任。2年間監督を務め退任後は中日のシニアディレクターとして、定評ある外国人獲得などの編成業務に携わっている。
球団社長に就任したばかりであったが、根本は1999年4月に心筋梗塞で急逝。その日の昼までゴルフを楽しむなど、亡くなる予兆は全くなかったという。この年ダイエーは福岡移転後初のリーグ優勝を遂げ、中日との日本シリーズを制し日本一となった。
選手としては実働4年で通算打率.189、監督としても11年間で598勝687敗66分、最高順位が広島1年目の3位という成績であったが、2001年には弱かったチームの基礎づくりの功績が讃えられ野球殿堂入りを果たした。今年で没後20年だが、根本の影響力は今も野球界に強く残っているといえるだろう。
参考文献
高橋安幸「根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男」集英社、2016。
山本浩二「コージのなん友かん友」日刊スポーツ新聞社、1987。
近藤唯之「プロ野球 新・監督列伝」PHP文庫、1999。
伊原春樹「指導者は嫌われてこそ一人前」ベースボール・マガジン社、2015。
根本陸夫氏、死去から19年 今も記憶に残る秘話 https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/201805140000444.html
近藤唯之「プロ野球 遅咲きの人間学」PHP文庫、2001。
- #67 西清孝(横浜ベイスターズ)
- 1990 年代に横浜ベイスターズでいぶし銀の活躍を見せた、苦労人のセットアッパー。94-99年に背番号 67 をつける。
高卒の 1984 年に南海へテスト入団後、1990 年オフに広島へ移籍。一軍での活躍はほとんどなく、1993 年オフに戦力外通告。一時引退も考えたが、横浜に打撃投手兼任としてテスト入団。
1995 年に選手として復帰、翌 1996 年復帰後一軍での初登板。その後、中継ぎとして横浜ベイスターズの黄金期 (優勝した1998年前後) をいぶし銀の活躍で支えた。
1997 年のプロ13年目での初勝利はプロ野球記録となっており、いまだに破られていない。
引退後は打撃投手に転向し、現在は中日に在籍している。
- #66 森田通泰(中日ドラゴンズ)
- 1963年、中学卒業後に養成選手(練習生)として中日に入団。背番号は 66 。この年、中日は高校生3名が養成選手として入団している(翌年にも2名入団した)。
ドラフト制度が始まったのが1965年なので、その前の時代の話である。森田は中日で選手として過ごしながら通信制の高校に通っていた(他の高校生選手も通信制高校に在籍していた)。
中日では過去、戦前に西沢道夫が14歳で入団し、投打で活躍して背番号15が現在2つしかない中日の永久欠番となった歴史があり、森田を含めた高校生選手には西沢に続く選手として期待されていた。当時は選手と首脳陣を合わせて60人強であり、60番台の背番号は現在の育成選手が背負う3桁の背番号のような扱いであったという。
森田を含めた3名の高校生選手はいずれも軟式野球の経験しかなかったため、まずは硬球に慣れる練習から始まった。森田は投手として入団したが内野手に転向。それでも一軍はおろか二軍でも2試合しか出場機会がなく、1試合目は1度だけ立った打席でも「四球を選べ」というベンチの命令に従って打席に立ち死球で出塁したのみ、2試合目は守備固めでの出場であった。
1966年、当時の支配下登録選手枠が60名から50名に減った影響や、膝を負傷したこともあり中日を退団。高校も中退した。
社会人野球のチームに入り試合出場を目指したが、当時のプロアマ規定によりプロ野球経験者は公式戦に出場できなかった(ここでプロ・アマ間の問題をこじらせた要因をつくったのも、1960年代の中日なのだが…)ため、ソフトボール部で試合に出場していたという。
その後条件付きで元プロ野球選手が社会人野球の公式戦に出場できるルールが確立したが、これは1999年の話。現在は元プロ野球選手が社会人野球の選手・指導者や学生野球の指導者に転身するケースが増えているが、プロ・アマ間の断絶状態の解決には時間を要した。
中日の高校生選手5名のうち、一軍出場を果たしたのは2名のみでいずれもレギュラー定着レベルの活躍には至らなかった。
ドラフト制度導入後は養成選手枠自体がなくなり、最終学歴が中学卒の選手はこれ以降中日には誕生していない。しかし他球団では中学卒の選手のドラフト指名が3例あり、さらに日本の学歴で中学卒相当という例を含めれば2004年ドラフト会議にて阪神に8巡目で指名された辻本賢人がいる。www.chunichi.co.jphttp://www.chunichi.co.jp/nbook/shoseki/chu2015101601.htmlhttp://www.chunichi.co.jp/nbook/shoseki/chu2015101601.html
- #65 九鬼隆平(福岡ソフトバンクホークス)
- 2016年春、熊本の秀岳館高校主将としてチームを引っ張ってきた捕手・九鬼隆平は、高松商高と対戦したセンバツ準決勝の延長11回に頭部に死球を受けて退場。担架に乗せられ、涙を流しながら甲子園を後にした。
その直後に発生した熊本地震の影響で、ほぼ準備期間がないまま熊本大会を迎えたが、これを制して夏の甲子園切符をつかんだ。夏の甲子園でも準決勝まで勝ち進み、春夏連続ベスト4。タレント揃いのチームメイトを束ね、攻守に光るプレーを見せた九鬼は「高校ナンバーワン捕手」の評価を不動のものにした。
2017年ドラフト3位で入団した期待の新人は、甲斐・高谷というリーグトップクラスのキャッチャーがいるソフトバンクにおいて、次世代のエースキャッチャーを狙うべく筑後船小屋で汗を流している。
2018年シーズン、甲斐以外の控えキャッチャーは鶴岡・斐紹が移籍し、高谷・栗原が故障離脱したときは第2捕手か?と言われたこともあった。
NPBウエスタン選抜にもたびたび選出されており、今後が期待される選手である。
なお、苗字を見ての通り、九鬼水軍の末裔である。
- #64 松坂大輔(中日ドラゴンズ)
- 松坂は、2014年オフにソフトバンクと3年契約を結び入団したが、右肩のコンディション不良が続き、この3年間で2016年に1試合中継ぎ登板したのみ、1回5失点という成績しか残せなかった。
2017年オフの契約満了の際に、育成契約かコーチ契約でソフトバンクへの残留を打診されたが拒否し退団(コーチ契約の打診はなかったという説もあり)。この時期に日本各地の病院や施設を回っていたが、2017年10月に運動力学を研究している施設で右肩がはまり、投げられるようになったという。これだけでなく、右肩がはまるまでに様々なリハビリで右肩周辺を鍛えていた蓄積もその後の復活のきっかけになった。
2017年12月に、西武での新人時代に投手コーチを務めていた森繁和監督、そして編成部在籍のかつての「兄貴分」友利結がいる中日が入団テストを行うと発表した。なお、この時期に楽天の二軍監督から一軍ヘッドコーチ(のちシーズン途中から監督代行→監督)に異動した、松坂と同じ1980年生まれの平石洋介が楽天球団に松坂獲得を打診しており、松坂もオファーが先に来たところから受けるつもりだったと語っていたため、タイミング次第では「中日・松坂」は生まれなかった可能性もあった模様。
2018年春季キャンプ前に入団テストを行い、中日入団が決まる。松坂の代名詞ともいえる背番号18は鈴木翔太が背負っていたが、鈴木の背番号はそのままにして、空き番かつ「18=9+9」となることもあり背番号99を選択。MLBから日本に復帰して3年間まともに投げられなかった投手が本当に復活できるのかと思う一方で、かつて中日で背番号99を背負って復活し、日本一に貢献した中村紀洋という前例を松坂に重ね期待していた中日ファンもいたと思う。
2018年4月5日のvs巨人戦(ナゴヤドーム)、NPBでは12年ぶりの先発マウンドに立つ。5回3失点(自責点2)と先発として試合をつくったものの打線の援護がなく2-3で敗れ敗戦投手となる。
4月19日のvs阪神戦(ナゴヤドーム)でも先発し7回2失点(自責点1)とハイクオリティスタートの基準を満たす好投だったが、またも打線の援護がなく1-2で敗戦投手となる。
4月30日のvsDeNA戦(ナゴヤドーム)で初回の3点のリードを7回1失点の好投で守り切り、NPBでは12年ぶり、そしてMLBを含めても4年ぶりの勝利投手となった。
5月13日のvs巨人戦(東京ドーム)は2回途中で足がつって降板し敗戦投手となるが、5月20日のvs阪神戦(ナゴヤドーム)では6回1失点で2勝目を挙げた。この試合では打席でも3打数2安打を放っている。
しかし6月17日のvs西武戦(メットライフドーム)で古巣への凱旋登板が予定されていたが、背筋痛で登板を回避した。肩以外のコンディションにも注意しながら、ナゴヤドームでの試合を中心に中10日前後間隔を空けての登板が多かった( https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181227-00010001-cbc-base )。
2018年のオールスターゲームではファン投票でセ投手部門1位を獲得し、7月13日の第1戦(京セラドーム大阪)の先発で登板。2イニング投球する予定だったが、1回5失点で降板した。
そしてシーズンを終わってみれば 6 勝 4 敗でカムバック賞を受賞。チーム内の勝利数でいえばオネルキ・ガルシアの13勝9敗に次いで2番目であった。
松坂のこの復活劇は素晴らしいものであったが、肩のコンディションを見ながら登板間隔を長めに空けたり、ナゴヤドームでの登板が中心であったりといった先発登板をしており、ローテーションを守るレベルではなかった(とはいえ、昨年は規定投球回に到達したセリーグの投手がわずか8名(1チームに1〜2名)とどのチームも先発ローテーションの固定に苦労したといえる年である)。中日の先発投手のチーム防御率4.08はリーグ2位であったが、炎上続きで抑えの固定できなかったリリーフ陣とともにローテーションを守れなかった先発陣(特にビジター、屋外球場で炎上傾向あり)にも問題がある( https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181129-00257307-fullcount-base )。
松坂も今季は球場に関係なくローテーションを守れる先発投手として役割を果たしたいとしている。そして昨年は右手の血行障害の影響などで未勝利に終わった前出の鈴木翔太と背番号を入れ替え、満を持して松坂が18を着けることになった。
松坂と同学年の現役選手も本人含め10人(所属未定、NPB以外所属の選手も含む)となったが、残り30勝となった日米通算200勝を松坂は目指してほしいと思う一方、鈴木をはじめ他の投手も松坂の投げっぷりから各自学びとって活躍してほしいと中日ファンの中の人としては期待している。
- #63 関根大気(横浜DeNAベイスターズ)
- 言わずもがな、横浜DeNAベイスターズイケメン男子「関根きゅん♡」
野球選手にしては珍しく、肉や乳製品、小麦を食べず、サラダや大豆、魚、玄米を食べるという、世の中の女子がびっくりするストイックな食生活を取っている。
球団の納会は毎年焼き肉屋で開催されているが、
「僕お肉食べないんで」
と言いながら、豆腐を食べている映像もドキュメンタリーに残っている。
成績の方はぱっとせず、オープン戦では長打を打ちまくるものの、シーズンが始まると打てなくなってしまい1.5軍生活。
毎年シーズン半ば頃から1軍に上がり、主に代走や守備固めに出ることが多い。
今年こそは君のはにかんだ笑顔が見たいよ、関根きゅん!!
- #62 佐々木宏一郎(近鉄バファローズ)
- 「近鉄」で「佐々木」姓だと、まずは首位打者を獲得し、監督も務めた佐々木恭介の名前がすぐに出てくるのではないかと思う。
では、「近鉄」で「投手」で「佐々木」姓は?
これが、時代の近い佐々木修以外に、実はもう一人、佐々木宏一郎がいる。この2人、ともにアンダースローでもある。
岐阜短期大学附属岐阜高校(現・岐阜第一高校)から1962年、大洋にテスト入団し、早速一軍で登板し、初勝利を挙げるもなぜか1年で解雇。
1963年に近鉄に移籍。その後、1975年シーズン途中に南海へトレードで移籍し、1981年まで20シーズンプレー。
通算667試合登板、132勝152敗、1970年には最高勝率投手となるなど、なかなかの大投手。
背番号は56(大洋)→ 62 (近鉄移籍初年)→16→32(南海)→16→53、と変遷している。
近鉄移籍により、前年まで近鉄で現役生活を送り、この年投手コーチとなった、同じくアンダースローの武智文雄に鍛えられたのがよかったか、この後、当時の弱小近鉄を支える投手の一人となる。
近鉄在籍時のみで100勝を上げたのは大エース・鈴木啓示と佐々木宏一郎、そして武智文雄の3名のみである。
なお、近鉄入団翌年の1964年に、佐々木と武智は背番号を交換し、佐々木が16、武智が62となっている。
そんな佐々木宏一郎が年間最高成績を上げたのは43試合登板、投球回数219回、10完投6完封、17勝5敗、勝率.773、防御率2.05で最高勝率投手となった1970年であるが、この年、佐々木は、現在までNPBで15名しか達成していない大記録を達成している。
その大記録とは、1970年10月6日に南海相手に大阪球場で達成した、完全試合である。これがまた面白いことに、大阪球場では、大映相手に1955年6月19日に武智文雄が完全試合を達成している。
さて、今年4月30日をもって「平成」が終わるが、その「平成」の完全試合達成者は、現時点では1994年5月18日の槙原寛己(巨人)のみ。はたして次の完全試合達成者は、「平成」の間に現れるのであろうか……?”
- #61 杉谷拳士(北海道日本ハムファイターズ)
- 「拳士」の名前の由来は杉谷本人もよく知らないとのことだが、その名前から連想されるように、杉谷の父は元プロボクサーである。父が経営するボクシングジムでトレーニングをしたりサッカーに打ち込んだりという時期もあったそうだが、親の希望もあり野球の道に進んだ。
なお、日本ハムの二軍の応援では名字の「すぎや」(よく誤読されるようだが「すぎたに」ではない)、一軍の試合の応援では名前の「けんし」でコールされる。
帝京高校1年時に出場していた夏の甲子園の準々決勝(vs智弁和歌山)では、8回までで4-8と敗色濃厚な場面から9回表に12-8と大逆転するも、3点本塁打と四球で12-11となった9回裏無死一塁という場面で、帝京は投手経験のある選手を使い切ってしまった。そこで地方大会での登板経験が一切なかった杉谷が遊撃手からマウンドに送られたが、初球で死球を与え走者を出してしまい再び遊撃手に戻された。この走者が生還したため帝京はサヨナラ負けを喫し、杉谷が1球で敗戦投手となった(なお智弁和歌山の投手も1球で勝利を記録している)。
高卒後は社会人野球に進む予定だったが、帝京高校の先輩・森本稀哲の活躍などを見て日本ハムに入りたいと決意。2008年に入団テストに合格し、ドラフト6位指名を経て日本ハムに入団した。なお入団テストでは同年ドラフト7位で入団した谷元圭介(現中日)と対決し、その小柄な姿を見て「これなら打てる」と意気込んだが社会人野球で実績を積んでいた谷元の前に三振を喫した( http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=070-20150803-01 )。なお、谷元の身長(公称)はプロ野球選手としてはNPBでも最小に近い167cmであるが、杉谷も173cmで谷元移籍後は日本ハムで最も身長の低い選手のひとり(昨季時点)となっている。
入団当時の背番号は 61 (2016年から2に変更)。一部野球ファンからは「野球の上手い芸人」と呼ばれるほど声の大きさとキャラクターには定評がある。日本ハムOBの野球解説者・岩本勉からは「うるさ杉谷」とあだ名される、昨年で現役引退した同僚投手で先天性難聴のハンディキャップを持つ石井裕也はあまりのうるささに杉谷が話を始めると補聴器のスイッチを切ってしまう、栗山英樹監督からは「誰も呼んでないのに勝手に来た(一軍に)」「(杉谷って)それ誰?知らないよ」などと冗談で塩対応される…と逸話に事欠かない。本職は芸人…ではなく二塁手だが、近年は外野手としての出場が多く、また二塁以外の内野守備に就くこともある。スイッチヒッターは高校時代から取り組んでいるが、高校時代は右打席の練習がメインで左打席の練習量は少なかった模様。このようにチームでは打席の左右・守備位置を選ばないユーティリティプレイヤーとして試合途中から出場機会を得ることが多い。
杉谷の地元は西武池袋線沿線の大泉学園であり、地元からほど近い西武の本拠地・メットライフドームへ知人が多数観戦に訪れることもあって、2014年より杉谷の依頼を受けて西武のウグイス嬢による打撃練習時の「杉谷いじり」が始まった。なお、この「杉谷いじり」の内容について、杉谷本人の情報の下調べを事前にしているものの、原稿はなくすべてアドリブで行っているとのこと( https://full-count.jp/2015/08/14/post15796/ )。「杉谷いじり」は年々内容のクオリティが上がっていると評価され、ついにフジテレビ「中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞2018」では珍プレー大賞を選手以外で受賞する文字通り「珍しい」事態となった( https://twitter.com/lions_official/status/1071404770420641792 )。これには杉谷本人もお祝いのコメントを寄せている( https://twitter.com/lions_official/status/1071600610116423685 )。
2015年からテレビ朝日「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル」(正月版)の名物企画「リアル野球BAN」に帝京高校の大先輩・石橋貴明率いる石橋JAPANから現役プロ野球選手でありながらピッチングマシンの球速・球種の制限のハンデをもらいつつ出場している(2018年は欠場)。派手に塗装された特注バットでパフォーマンスを見せつつ打席に立つ、チームの先輩である中田翔をいじる、ゴルゴ松本(TIM)との息ピッタリのコンビ芸で相手を挑発する、…などなど野球の上手い芸人の本領を発揮し、杉谷の全国的知名度を押し上げるきっかけとなった。左打席の成績が右打席より極端に悪くない年もあるのだが、1歳年下の山田哲人(ヤクルト)から「左で打てや(棒読み)」と煽られて、「今日は右打席で打つ」と前振り→2〜3秒くらいの絶妙な間→「やってやろうじゃねぇかよこの野郎!」とあっさり挑発に乗り左打席に立つ場面もお約束と化しつつある(そしてちゃんと左打席でも安打を打つこともある)。2019年正月放送分では杉谷属する石橋JAPANは一度大差でのコールド負けを喫したものの、再試合では杉谷が決勝打を打ちMVPに。賞品の電気自動車を獲得した。なお「野球の練習した方がいいよ拳士」「アイツ野球辞めても仕事一杯あるやろな」「プロ野球選手ですからね拳士も、100km/hのストレート打たれへんかったら…」と対戦相手の柳田悠岐(ソフトバンク)、前田健太(ドジャース)らから正論すぎるコメントを連発された模様。
「リアル野球BAN」の出番がなかった昨オフは武者修行としてオーストラリアの野球リーグに派遣されていたが、プロ11年目の今シーズンに向けて今オフもオーストラリアで単独自主トレに励む。本職の芸人…ではなく二塁手のレギュラー獲得に向けて、杉谷の挑戦は始まっている。
- #60 二出川延明(パリーグ審判)
- 俺がルールブックだ!
という台詞は野球を深く知らない皆様もご存知かもしれない。
この有名な台詞の主 と言われている のは当時のパリーグ審判であった二出川延明。
まずこの二出川について簡単に紹介しよう。
1901年生まれ。明治大学野球部時代から野球のルールの深い理解に努めていた。大学卒業後は京阪電気鉄道に入社し野球部に入部。ちなみに他の関西の大手私鉄(阪神、阪急、近鉄、南海。阪神以外は既に撤退)と同様に京阪もプロ野球球団の保有を検討していたが、本業の鉄道事業に注力したいという理由で断念している(これは二出川が京阪を退社した後の話)。高校野球の指導者などを経て1934年に設立したばかりの大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)に入団。
現在は王貞治の永久欠番となっている背番号1を初めて巨人で背負った選手でもあった。巨人には2年足らずの在籍で、名古屋金鯱軍に選手兼任監督として移籍。なお金鯱は現在の中日ドラゴンズとはチームとしては無関係だが、金鯱の経営陣の一部が戦後中日に合流している。二出川は金鯱在籍1年で引退し審判に転身した。1960年よりパリーグ審判部長。1963年に審判引退。1970年に野球殿堂入り。1989年没(今年で没後30年である)。
さて件の台詞が発せられたとされているのは今から 60 年前(巨人vs阪神の天覧試合があった年でもあり、近鉄パールスが近鉄バファローにチーム名を改めた年でもある。なお、「バファローズ」と複数形になったのは1962年から)の1959年7月19日の大毎オリオンズvs西鉄ライオンズ戦。大毎は現在の千葉ロッテマリーンズ、西鉄は現在の埼玉西武ライオンズのそれぞれ前身である。
球場は当時大毎の本拠地であった後楽園球場でダブルヘッダーの第2試合、場面は8回裏の大毎の攻撃中であった。ランナー一塁から醍醐猛夫がバントでランナーを送ろうとしたところ、ピッチャー稲尾和久は二塁へ送球。これが走者の足と送球がほぼ同時というタイミングでセーフを判定され、西鉄の監督であった三原脩が抗議。三原は「走者の足と送球が同時ならばアウト」と思い込んでいたのだが、走者の足が塁に触れた時点で触球が同時であってもセーフというのが公認野球規則の解釈である。
三原はまずこの判定を下した二塁塁審に抗議したが受け入れられず、納得いかなかった三原は審判控室へ。ここに二出川に加えて道仏訓ら若手審判がいた。三原はグラウンドから窓越しに二出川に野球規則(ルールブック)を出すように要求。審判にとっては仕事中常時携帯すべき野球規則だが、この日に限って二出川は忘れていた。二出川は上記のルールを口頭で三原に伝えたが、どうしても野球規則の現物で確認したいと三原が再度要求すると「俺が言っているんだから間違いない!」と突っぱね、三原にとって巨人の選手時代の先輩でもある二出川の前に引き下がらざるを得なかった。
さてお気づきだろうか。このやりとりの中に「俺がルールブックだ!」という台詞は 出てこなかった のである。上記の状況は道仏らの証言に基づくものであるが、この証言の通りならばメディアで報道される中で「俺が言っているんだから間違いない!」という台詞が「俺がルールブックだ!」に置き換わってしまったということになる。一方で当事者の二出川は確かにそう言ったと語っていたようで、真相は謎に包まれたままである。
ほかにも二出川には、アウトと判定した本塁でのクロスプレーが誤審であるとスポーツ新聞に証拠写真とともに指摘された際に「写真の方が間違っている」と主張し審判の判定が絶対であるという信念を示したり、皆川睦雄(南海)のカウント3-0から投げたど真ん中のストレートを「気持ちが入っていないからボール」と判定したり、…と、現在では到底認められないようなエピソードもある。
人間の記憶は時間が経つと中身が少しずつ変わってしまったり、思い出す手がかりによって簡単に書き換えられてしまったりする、実にいい加減なものであることはかねてから心理学者により指摘されている(中の人もこれで痛い目に遭うこと多数…)。
野球に関する報道でも、メディア側のシナリオに合わせて本来ありえなかった出来事や考えを話してしまい、笑い話で済むならともかく、あらぬ問題を引き起こしてしまった事例は数多い。
SNSにより直接選手が情報発信したり、選手とファンが直接やりとりしたりという場面も増えたので、問題はより複雑化しているともいえる。野球選手、関係者、そしてファンそれぞれが膨大な情報を前に試される時代といえるかもしれない…
…本業の関係者からあんたこそ仕事に気持ちが入っとらんよと言われた気がしたので、中の人はそろそろ本業に戻ります。それではまた。
参考文献
織田淳太郎「審判は見た!」新潮新書、2003。
田宮謙次郎・道仏訓「プロ野球 審判だけが知っている―誤審、大乱闘、トラブルの真相」ソニー・マガジンズ、1992。
【プロ野球仰天伝説19】ど真ん中に投げたのにボールと言われた皆川睦男 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180111-10
浜田寿美男「自白の心理学」岩波新書、2001。
#59~#50
- #59 浅尾拓也(中日ドラゴンズ)
- 浅尾が2010年に残した 59 ホールドポイント(12勝47ホールド)はNPBのシーズン歴代最高記録である。なお、翌2011年の52ホールドポイント(7勝45ホールド)も歴代4位のシーズン記録で、これに加えこの年は前半不調であった岩瀬仁紀に代わり抑えを務める場面もあり10セーブを記録している。
どちらの年も中日はリーグ優勝、そして2011年は中継ぎ投手初のリーグMVPも獲得するなど浅尾の全盛期であった。
特に2011年は極度の投高打低シーズンとはいえ、リーグ最多の79登板(87.1投球回)、自責点はわずかに4で防御率0.41という驚異的な数字を残し、他の投手陣とともにロースコアの試合でたびたび勝ちを拾い胴上げ投手にもなった。なお、この年の最多勝であった吉見一起の勝ちを2つ消してしまったが、この2勝分があれば吉見は20勝だったので吉見がMVPと思っていたと、浅尾はMVP受賞時に謙虚なコメントを残している。「今日の○○(先発投手)にはこの1点で十分でした。8回は浅尾、9回は岩瀬が締めて1対0で中日が勝ちました」が、この年のスポーツニュースの定番の流れだった印象(※あくまで中の人個人の感想です。)。
愛知県出身で中日一筋という地元生え抜き(これは岩瀬も同様)。
2006年大学・社会人ドラフト3巡目で中日に入団。入団当初から自身のセールスポイントを「牽制とフィールディング」と答えており、実際そのピッチングとともにピンチを救ってきた場面は数多い。フィールディングの上手さで2011年にはその年救援登板のみの投手として初のゴールデングラブ賞も受賞した。浅尾の出番が少なくなるにつれ、送りバントや微妙な当たりの内野ゴロを見るたび「これが浅尾ならゲッツーなのに…」と思ってしまうファンも増えたとか増えないとか…このような悩みも贅沢か。
また、このフィールディングは元々の身体能力の高さが成せるものだったともいえるかもしれない。入団当初の印象について森繁和コーチ(当時)は「瞬発力など身体能力は高いのだが身体の線が細くて持久力がない」と評していたが、引退後に入団当初〜全盛期の監督であった落合博満はラジオで「監督として見てきた選手の中で一番身体能力が高かったのは浅尾。もう1年くらいやれたんじゃないか」と引退を惜しむコメントを残している。
リリーフ投手のイメージが強い浅尾だが、2009年には開幕投手を務めている。これは先発を志願していた浅尾に対して、「そのうち先発としては通じなくなるし勝てなくなったところで配置転換しよう」と考えていた森コーチの考えによる。実際、森コーチ自身が現役時代の1982年に西武の開幕投手を務めているが、先発よりリリーフに適性があると判断していた広岡達朗監督がまず先発として起用し、結果が出ないと諦めさせてから配置転換したという過去があり、同じことをコーチとして浅尾の起用にも当てはめたのである(落合監督は投手起用を森コーチに一任していた)。
なお、現役時代の森コーチは開幕から4試合で先発を諦めさせられリリーフに配置転換されたが、浅尾は開幕戦で勝利、その後も5月13日まで7試合に先発登板し3勝4敗と結果を残したので、森コーチは先発浅尾の様子を見た上で「(当時弱かった)横浜戦では勝てたけど阪神など強いチームに当たると内容的に見ていられないから」と判断してリリーフに配置転換した。
2012年以降は不調と肩の故障もあって登板機会が減少するが、2017年10月1日のヤクルト戦で通算200ホールドを達成。2018年9月29日の阪神戦が現役最後の登板であったが、浅尾本人の希望もあって降板後は同じ年に引退することになる、前日に1000試合登板を達成したばかりの岩瀬に託された。10年ほど前には岩瀬の後釜として期待されていた浅尾だったが、岩瀬が現役をここまで続け浅尾が若くして、しかも同時に引退することになろうとは…
2019年からは中日二軍投手コーチとして、2018年にリリーフを中心に結果を残せなかった投手陣に割り込み結果を残せる後輩の育成が期待される。
- #58 岡田幸文(千葉ロッテマリーンズ)
- 様々な意味で「こんなプロ野球選手もいた」と思わせるのが、岡田の野球人生である。
栃木・作新学院高校では投手だったが怪我の影響で外野手になり打撃で成果を残す。しかし日本大学進学直後に怪我で1年以上プレーできないと診断され、野球部を辞めるどころか大学まで中退し実家に戻る。
その後地元のクラブチーム・全足利クラブに誘われ入団した。チームからの斡旋でプロパンガスの配送の仕事に従事しながら野球を続けた。この時期に結婚し、子供2人をもうけるが、ここでロッテの山森雅文スカウト(当時、阪急・オリックスでの現役時代のホームランキャッチで有名)の目に留まり入団テストへ誘われた。
2008年育成ドラフト6位で指名されたが、妻の猛反対を受ける。勤務先のガス会社から「プロで2年頑張ってダメだったらまた会社に戻ればよい」と後押しされたこともあり、2年で結果が出なかったら辞めるつもりで育成選手としてロッテに入団した。
入団直後は家族と離れ、さいたま市にある二軍施設近くの独身寮で暮らした。2009年開幕前に支配下登録となり、背番号も132から半分の66に変わった。そして寮を出て栃木県足利市の自宅からさいたま市まで練習に通った。その後球場近くにアパートを借りるなどしていたが、その時期も週に1度は自宅に帰り、共働きの妻を支えるように家事・育児をしていたという。
1年目は一軍出場なしに終わったが、2年目の2010年に球団史上初の育成ドラフト出身選手として一軍デビューを果たす。2010年11月7日の中日との日本シリーズ第7戦で、12回表に浅尾拓也の151km/hの直球を打ち返し、右中間を破る適時三塁打に。これが決勝打となりロッテの日本一が決まった。なお、試合後に電話した妻からは「てんぐにならないでね」と言われたそうだ( http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201812/CK2018122602000153.html )。
2011年、岡田を担当していたスカウトの山森が一軍外野守備走塁コーチに異動。山森から「ゴールデングラブ賞を狙える選手になれる」と言われた岡田はこの年育成ドラフト出身選手では初の全試合出場を果たす。6月15日のvs巨人交流戦(東京ドーム)ではセンター頭上を抜けそうな打球をジャンピングキャッチ、左中間に抜けそうな打球をグラブの先でランニングキャッチ、右中間に落ちそうな打球をダイビングキャッチというファインプレーを1試合で見せ、巨人ファンからも拍手を浴びた。そして広瀬叔功(南海)の持つパリーグ記録にあと2と迫る351刺殺を記録し、この年の最多得票でゴールデングラブ賞を受賞。
2012年は打撃の不調で出番が減ったものの、2年連続のゴールデングラブ賞受賞。
岡田は打撃でも2つの記録を残した。1つはデビューからの連続打席無本塁打記録、もう1つは野手としての連続打席無安打記録である。岡田は高校時代は練習で1本柵越えしたのみで公式戦は0本塁打、クラブチーム所属時代に1本塁打を記録( https://number.bunshun.jp/articles/-/821389 )したが、プロでは本塁打が出ず2014年に横沢七郎(東映)の持つデビューからの連続打席無本塁打記録1770打席を更新。そして2016年10月5日のvs楽天戦(ZOZOマリン)を最後に長らくヒットがなく、2017年は33打席連続無安打、2018年もヒットがないまま9月25日に現役引退を表明。10月8日のvsソフトバンク戦(ZOZOマリン)で引退試合を行ったが、この前の試合まで足掛け3年、57打席連続無安打を記録した。引退試合の第1打席で二飛に倒れ、 58 打席連続無安打となり桜井輝秀(南海)に並ぶNPBタイ記録を達成。第2打席も遊直に打ち取られ、59打席連続無安打のNPB新記録を樹立してしまう。その後第3打席は左前安打、第4打席は中前安打、そして現役最終打席となった第5打席は右前安打と3打席連続安打、さらにこの後二盗も決めて現役の最後をしめくくった。なお、デビューからの連続打席無本塁打記録は更新を続け、現役を終えるまで本塁打を打たなかったことから、2501打席まで記録を大きく伸ばした。ちなみにデビューからの、の制約がない連続打席無本塁打記録は赤星憲広(阪神)の2528打席で、こちらも更新寸前であった。
引退後はロッテの球団職員の身分で派遣される形で、地元栃木県を本拠地とするルートインBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスでコーチを務める。同い年で同じ栃木県出身の寺内崇幸監督(元巨人)、飯原誉士選手兼任コーチ(元ヤクルト)らとともにチームを支え、指導者としてのキャリアをスタートする。
- #57 古賀優大(東京ヤクルトスワローズ)
- 特別身体が大きいわけでも、高校時代にHRを量産したわけでも、ましてや入団1年目から大きく新聞に取り上げられるような選手でもない。
が、彼には特別な期待をしてしまう。
古賀優大。
福岡県柳川市出身。
2016年ドラフト5位でヤクルトに入団。背番号 57 。
なお、琴奨菊関と同じ小学校出身 #超どうでもいい情報
2018年から打順8番固定の2軍捕手としてマスクを被り、高津二軍監督の下で鍛えられている。
なぜか初出場・初打席・初安打・初打点をすべて中日から決めている、中日キラー(予定)。
高津監督の近著「二軍監督の仕事~育てるためなら負けてもいい~」の中でも度々名前があがり、大切に育てられれているんだな、と感じる。
一軍には2018年にキャプテンを務めたゴリラじゃないほうの悠平(中村悠平)捕手や原樹里の相棒・井野捕手や西田捕手が控えており、またスタンドから見ても「プロとしてはまだまだ線が細い」3年目。
キャッチングもフットワークも課題山盛り。
でも、超高校級で3球団競合で捕手として欲しがった村上を3塁に押しのけて2軍8番を勝ち取った彼は、きっと近い未来に神宮球場で扇の要として活躍できると。
そして、永久欠番でもないのに誰もつけられない27番を、いつか引き継いでくれると信じてます。
2019シーズンの活躍が楽しみです!
- #56 奥村展征(東京ヤクルトスワローズ)
- 山形の高校野球を象徴する試合といえば、1985年夏の惨劇。
東海大山形がKK擁するPL学園に「7-29」という記録づくめのスコアで大敗したあの試合…
県民の多くが涙ながらに声にならない叫びをあげたあの試合…
県議会でも「なぜ山形の高校野球はこんなに弱いのか」と話題になったほどの惨敗を受け、山形の高校野球は変革を推し進めた。
しかし、甲子園の壁は厚く険しく、とうとう春夏合わせて甲子園決勝にコマを進めたことのない「唯一の」東北勢となってしまった。
甲子園の話題になると未だに意気消沈してしまいがちな山形県だが、県民が「もしかしたら…」と夢見たチームがあった。
奥村展征主将が率いた、2013年夏の日大山形だ。
奥村は、強烈なキャプテンシーと躍動感あふれるプレーで日大山形をベスト4に導き、鮮烈なイメージと衝撃を視る者に与えた。
その秋のドラフト4位で奥村は巨人に指名されるも、1年目のオフに史上最年少のFA人的補償選手としてヤクルトに移籍。
レギュラーの座をつかみ取るには未だ至っていないが、内野全てのポジションを守れる器用さと天性のバットコントロール、そして若手随一の情熱と明るさで、次世代のヤクルトを担うヒーロー候補の一人となっている。
奥村の背番号は、今年「 56 」→「00」へと進化する。
奥村が進化するときは、ヤクルトというチーム自体も一歩先へ進化するときであると、あの夏の彼に魅了された私は信じて疑わない。
そんな彼は滋賀県出身である。
- #55
- 彼の地元は遠く、友達は少ない。仕事もしていないので、話し相手は私しかいないらしい。
私と会わないと1日声を発することがない。
そう自虐的な笑いを取ることもあった。
構って欲しそうな彼を、私は疲れている時や1人でいたい時、そっけない態度で応対した。その態度に彼が不満を持っているのは知っているし、もっと気を使ってほしいとも言われたことがある。でもそんな気にはなれないし、プライベートな空間にいる人間に気を使わなければいけないなんて。だったら私は誰に気を使ってもらえるのか。つまり、そういうことだ。
私がもう彼に興味がないこと、別れたいことは彼も気付いている。会話の中に沈黙が生まれ私が終わりの話を切り出してしまうのではないかという時、彼は決まって松井秀喜の話をした。
「松井はね、メジャーに行って英語が話せるようになっても、日本から連れて行った通訳の人に感謝をして解雇しなかったんだよ」
野球のことも松井秀喜のことも知らないけれど、彼が訴えていることは分かる。僕をもっと尊重してほしい、別れないでくれ。人と別れることはそれなりに労力を必要とする。仕事で疲れているのに、ストレートに別れないでほしいと言えない彼と、別れ話をする気にはなれなかった。
数年後、一度だけ彼を駅のホームで見かけた。彼は姿勢がシャンとしていて会った時から立ち姿が綺麗な人だ。服装もオシャレでピンクの花柄のシャツがとてもよく似合っていた。あの頃と変わっていない彼が電車に乗るのを、少し離れたところから私は見送った。
松井秀喜はすごい野球選手らしいが、私が野球を見始めたころにはすでに引退していて、野球人としての松井の成績やすごさを知らない。
私が知っているのは、松井がメジャーで野球をしていたことと、通訳を解雇しなかったということだけだ。
- #54 セルジオ・ロモ(サンフランシスコ・ジャイアンツ→ロサンゼルス・ドジャース→タンパベイ・レイズ)
- スライダーが武器のベテランリリーフ右腕。
投球フォームはサイドスローに近いスリークォーターで、フォーシームとスライダーの他にツーシーム、チェンジアップ、カットボールも投げる。
レイズは2018年「先発の力が弱い日はリリーフを一番点が入りやすいとされる初回から投げさせる、本来の先発は上位打線が終わった所からの登板でロングイニング」というオープナー制を採用し、5月19日のエンゼルス戦では彼は35歳メジャー11年目にして初先発を果たした。
この日は1回を投げ、三者連続三振。またその翌日も先発して2日連続先発登板。大谷翔平と投げ合った。別の日にはロモ→ベンターズ→ロモというかつての遠山葛西スペシャルを思い出させる変則的な継投があり、ベンターズが登板している際は投手でありながらサードの守りにつく珍記録を残した。
投手が一時的に他のポジションを守る場合、比較的守りやすいファーストかレフトかライトにつくのがほとんどである。この時ロモにサードを守らせたのは相手打者グレッグ・バード(ニューヨーク・ヤンキース)が一塁方向への打球の割合が高い左打ちのプルヒッターで三塁方向への打球は無いという読みによるものであった。
- #53
- 球場観戦に来る皆さんへ
燦燦と照り付ける太陽の下、あるいは蒸し暑い夏の夜、スタジアムでビールを飲みながら野球を観戦。
これに勝る楽しさは他にありますまい。
試合後、格別な勝利の余韻に浸ることもあれば、もちろん敗北の屈辱に打ち震えることもあります。
しかし、試合の勝ち負けとは関係ないところで残念なのが、ビールのカップや食べカス等のゴミを席に放置して帰る方がどうにも多いことです。
出口にはゴミ袋をもって待機しているバイトの方々がキチンといるというのに、何故そこまでゴミを持っていくことすらできないんですかね…贔屓のチームの素敵なスタジアム、末永く気持ちよく使いたいものです。
ちなみに、大谷翔平はゴミを拾うことを「運を拾う」と表現していますよ。
- #53 鈴木博志(中日ドラゴンズ)
- 球場で観戦が終わるとちゃんとゴミを拾って帰る、パリーグの試合もよく観戦する中日ファンの中の人です。よく拾うのはジェット風船、空のカップ(ビールの飲み残しやソフトドリンクの解けた氷なんかが残ってたり…)、弁当つまみ類の空き容器の順ですかね。
さて昨年よく働いた中日のルーキー、鈴木博志のお話。
静岡県西部の掛川市出身。高校は同じく静岡県西部の磐田東高校、高卒後は同じく静岡県西部の浜松市に本拠地を置くヤマハ硬式野球部に所属。なお、中日で同姓の鈴木翔太も静岡県西部の浜松市出身である。全国で2番目に多い鈴木姓だが、静岡県西部(遠州)〜愛知県東部(三河)の一帯の鈴木姓人口は特に多く( http://www.satv.co.jp/0300program/0040shonnaitv/back/2014/10/2014-1002.html )、35〜40名の学校のクラスのうち少なくとも3名は「鈴木さん」がいるとも(鈴木の出身校の近所の高校に通っていた中の人のクラスは、一番多くて8名いた。さらにその中に同姓同名まで…)。ニックネームらしきものはほとんどなく、この辺の鈴木姓の人間の例に漏れず下の名前で「ヒロシ」と呼ばれていた模様( http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=046-20181008-12 )。ヤマハでの1年目は高校時代に骨折し手術した右肘のリハビリに大半を費やしたが、並行して取り組んだトレーニングやフォーム改造により持ち味のストレートの球速を上げることができた。
2017年ドラフト1位で中日に入団。中村奨成(広島)の「外れ1位」だったが、もし中日が中村の交渉権を得た場合は逆に鈴木を「外れ1位」で広島が指名する話もあった模様。かねてから目標にしているクレイグ・キンブレルの背番号46を付けたいと希望していたが、空き番号でもあったため希望通り46を背負う。
開幕一軍で2018年シーズンを迎え中継ぎで活躍。デビューから9試合目まで無失点のピッチングを続けた。そして7月には不調の田島慎二に代わりクローザーとなる。4セーブを挙げたが、まだ荷が重過ぎたか打ち込まれる場面が増え二軍落ちし、守護神の座を佐藤優に譲った。それでも前半のフル回転の活躍ぶりもあって、ルーキーながらこの年チーム最多の 53 試合に登板、祖父江大輔の17ホールドに次ぐチーム2番目の12ホールドを挙げた。
課題としてはヤクルト戦の弱さが挙げられる。チーム別の被打率ではヤクルトのみ.327と唯一3割を超えており、特に神宮で打たれる場面が多かった( http://baseballdata.jp/playerP/1700101_5.html )。神宮をはじめとした屋外球場の弱さは他の中日の投手にもみられる傾向だが、6年連続Bクラスと低迷するチームを上位に押し上げるにはビジター、特に屋外球場で投手陣が結果を出すことは不可欠であろう。
- #52 川崎宗則(福岡ダイエーホークス→福岡ソフトバンクホークス→シアトルマリナーズ→トロントブルージェイズ→シカゴカブス→福岡ソフトバンクホークス)
- 彼はいつも明るく、前を向いて野球をしている、そう思っていた。
海の向こうに渡った彼の姿を見ると、その思いはより顕著なものとなる。
ブルージェイズ時代の2013年5月26日のオリオールズ戦でサヨナラヒットを放った後のヒーローインタビューで、
「マイ・ネーム・イズ・ムネノリ・カワサキ! アイム・フロム・ジャパン! アイ・アム・ジャパニーーーーーズ!」
と絶叫し、ファンのハートを鷲掴みにした。
印象的な選手に贈られる「GIBBY賞」にも輝いたこのインタビューはあまりにも有名だ。
2015年、ブルージェイズがレンジャーズを下してリーグ優勝決定シリーズ進出を決めた直後には、
「ただバットを振れ、ただ投げろ、ただキャッチしろ。みんな、何も考えるな。ただ勝つんだ!」
とジェスチャーとともに熱弁を振るった川崎。チームメート、ファンだけでなく、他球団のファンからも愛される、それが「MUNE・KAWASAKI」そう思っていた。
2017年シーズン、彼は福岡に帰ってきた。MLB仕込みのBASEBALLをソフトバンクホークスに持ち帰って後進にも広めてくれる、そして優勝に貢献してくれる、そう思っていた。
ところが彼は思いがけない形で球団を去ることになる。夏場に両アキレス腱(けん)痛で戦線離脱。2018年3月になりオープン戦が始まっても契約更改の情報が出ない、そして3月25日、突如「現在まで心身両面で復帰のめどが立たず、球団と協議を重ねてきたが、結論として契約の打診を辞退。心身両面でプレーできる状況が整わず、球団に現役引退を申し入れた。」という報道が出る、
そして彼の情報は消えた。どれだけのやきう民が彼の消息を知りたくても、全く情報が出てこないのである。こんなことは近年のプロ野球選手において初めてのことである。退団時に「自律神経の病気」という、なんとも言えない情報のみ明らかとなっていた。
2018年冬、日本シリーズも終了し、ストーブリーグが本格化する頃に、うれしいニュースが届いた。12月17日、ムネがヤフオクドームの球団事務所を訪れたというのだ。退団後、古巣の施設に姿を見せたのは初めて。
「少し元気になったのであいさつに来ました」。
今後については「まだ決めていない。もう少し家族とゆっくり過ごそうかな」。現状報告をした上で年明けに再訪の意向を示したそうで球団本部長も「非常に元気で安心した。これからいろいろと話し合いたい」とコメントした。体調が回復し、親交の深い米大リーグ、マリナーズのイチローとトレーニングもした、と話していたという。
あんなに底抜けに明るい野球少年のような選手でも、米国での5年間は毎年マイナー契約でスタート。マイナーでは長距離、長時間のバス移動や、突然の昇格や降格も日常茶飯事。夢を追い続けた代償ながら、休息が必要になっても無理はない。いつか、しっかり元気な状態に回復したら、指導者として日本の野球界のために力を発揮してほしいものである。
「そこまで頑張りすぎて自分を追い詰めなくてもいいんだよ」現代社会に生きる我々にも問いかけられる、ストレスとの闘い。
プロ野球選手にも本格的なメンタルヘルス対策が必要なのではないかと考えさせられる出来事だった。
- #51 鈴木尚典/カスティーヨ(横浜ベイスターズ)
- 背番号 51 といえばイチローがつけて以来、出世番号として、DB宮崎、SB上林、D京田など巧打者に与えられる番号となっている。また、鈴木姓ではC鈴木誠也もこの番号を背負っている(今年からは1)。
鈴木で51、忘れていけないのが、横浜ベイスターズに所属した鈴木尚典である。
入団5年目の1996年に初の規定打席(.299)到達し、レギュラーを獲得。
1997年、優勝した1998年と、二年連続首位打者を獲得。史上最強助っ人の名高いロバート・ローズと共に、黄金期のベイスターズのクリーンナップを担っていた。98 年に背番号は 7 と変更になったが、2007 年に 51 に戻している。外野手の若手の台頭により、惜しまれつつも2008年に引退。翌年オープン戦の引退試合で、前年最多勝のグライシンガーからホームランを打ち、有終の美を飾った。
いまや日本の4番となった筒香のバッティングフォームは、タイプは違うが、高校の先輩でもある鈴木尚典とそっくりである。
P.S.
鈴木尚典のあとに背番号 51 を背負ったホセ・カスティーヨが 2018 年 12 月 6 日、母国ベネズエラでの交通事故で亡くなった。冥福を祈りたい。
- #50 比屋根渉(東京ヤクルトスワローズ)
- 「うちの比屋根」
比屋根渉。俊足を武器にプロ野球の世界で戦い抜き、盗塁数 50 という記録を残して2018年に引退した、まぎれもないスポーツエリートである。
しかし走塁が売りのはずが
「フルカウントからスタートして打者空振り三振→なぜか塁間で足を緩める→二塁アウト」
「2アウトから一塁代走起用→次バッターがヒット→好スタートでもないのに無理に三塁を狙ってアウト」
「度重なる牽制死」
など、代走として出場しながら、何度も走塁死してファンのため息を誘ったものだった。
ところで、皆さんの周囲にもいないだろうか。
「何度言われても同じミスをする」
「ここぞの場面でありえない行動をする」
その人のことを考えるだけで頭が痛くなるような同僚や部下が。あれ、誰かに似ているような…
どうせその人と毎日顔をつきあわせていくのだから、ただ腹を立てたり呆れたりするより彼/彼女を「比屋根」だと思って接してみてはどうだろうか。するとあら不思議、「比屋根なら仕方ない」「比屋根だからなぁ」と途端に気持ちの整理がつくのである。
「うちの比屋根がさぁ」と愚痴を言い合うのも趣があってよい。
比屋根の繁殖力は強く、1人見かけたら職場に20人は隠れているとも言われている。おや、電話が来たようだ…
「もしもし、わたし比屋根。いまあなたの後ろにいるの」
#49~#40
- #49 マキシモ・ネルソン(中日ドラゴンズ)
- 中日とドミニカ共和国のつながり
2004年に就任した落合博満監督から中日に招聘された森繁和コーチ(現中日シニアディレクター)は、落合との会話の中で年俸が安く実力のある外国人選手の獲得ルートとしてドミニカ共和国(以下断りがなければドミニカと略、詳細は後述)の選手に注目した。
そこでドミニカ出身で元西武→巨人のドミンゴ・マルティネス(森とは西武でコーチと選手の関係)を現地スカウトに任命し、森自身も毎年オフにドミニカへ選手の視察に行くようになった。また、ドミニカ出身の選手のケアも考え、広島でブルペン捕手を務めていたルイス・フランシスを中日に招き、スカウトの役割も任せている。中日コーチの職を解かれていた2012年オフも森は自費でドミニカに渡った。
おそらく2004年オフの話。森は著書でロビンソン・カノ(ヤンキース→マリナーズ→メッツ)が中日に入団寸前であったが、あと一歩のところでヤンキース行きが決まってしまったというエピソードを披露している。その後は1年目の年俸が高くても4000万円未満と格安の年俸ながら、中日で活躍する選手の獲得に成功している(活躍できなかった選手も多いのだが)。なお、ドミニカの有力選手がことごとくMLBの球団に獲られることが増えたため、現在中日ではオマール・リナレスを介して縁のあるキューバをはじめ他の中米諸国や北米の選手の獲得にも力を入れている。
また、ドミニカの視察は命の危険と隣り合わせで、森は選手視察中に飛行機事故に巻き込まれそうになったり、ピストルを突きつけられたりしたことがある( https://www.news-postseven.com/archives/20131027_224140.html )。ドミニカに渡る際には日本食(夜間の外出は危険なため、夕食用とのこと)と現地に寄付する使用済みのボールをスーツケースに詰め、帰りには特産品のひとつであるコーヒー( https://coffeemecca.jp/beans/829 )をお土産に詰め込んでいる模様。
森がドミニカの選手を見る際のポイントは
「練習態度」
「ハングリー精神」
( https://number.bunshun.jp/articles/-/825904 )
そして
「酒癖」
( https://web.archive.org/web/20170703092335/http://www.hochi.co.jp/baseball/nolatin_nobaseball/20170703-OHT1T50154.html )
と語っている。そしてドミニカの選手は春先に調子が上がらない選手が多いので、シーズン序盤は活躍しなくても我慢して起用を続けるケースもあったと落合は著書で述べている。
サトウキビ畑から現れた身の丈2mもある大男
ネルソンは紆余曲折あって2004年に渡米しルーキーリーグでプレーしていたが、2005年オフに偽装結婚疑惑に関与したためチームを解雇、ビザも剥奪されアメリカを国外追放された(国外追放処分は2011年で解除)。その後一度ドミニカに戻ったが、2007年にはイスラエル野球リーグに在籍していた。
2007年、ネルソンは同郷のルイスからの紹介で、ドミニカで中日の入団テストを行うことになった。約束の時間に遅れたが、サトウキビ畑(ドミニカは砂糖も特産品のひとつ)をかき分けてサトウキビをかじりながら、シャツに短パン、サンダル姿のネルソンが現れた。そして着替えて森の前で投球を披露。キャッチボールもなしに2mを超える長身から、コントロールはともかくいきなり150km/h近い速球を投げた。ウィンターリーグでの活躍もあり入団テストの合格を森はその場でネルソンに伝えたが、ネルソンから「それより3日間何も食べていないので、ホットドックか何かでいいから食べさせてほしい」と頼まれたそうである。中日時代の背番号は 49 であった。
2008年はリリーフで6試合に登板。NPBのレベルに適応するため課題であったストレートの制球、変化球、クイックモーション、フィールディングなどの技術を磨いていった。2009年にプロ初勝利。また、1試合先発したが敗戦投手となる。
2010年、キャンプ地の沖縄に訪れた際、那覇空港の手荷物検査で実弾が見つかり警察沙汰に。事態を重く見た中日球団により3ヶ月の出場停止処分となる。ドミニカでは許可を得た上で護身用に拳銃を持ち歩くことが多いが、来日の際に拳銃は家に置いてきたが銃弾が荷物の中に残ってしまっていたとのこと。なお、2016年に同じくドミニカ出身のヤマイコ・ナバーロ(ロッテ)も実弾所持のトラブルを起こしている。中日に在籍していたドミニカ出身の選手では、ほかにも2005〜06年に在籍していたルイス・マルティネスが入団前年にドミニカにて発砲事件で指名手配されていた(正当防衛が認められた模様)。
ネルソンの話に戻ると、出場停止処分が解けた後は先発ローテーション入りし4勝3敗。
2011年は開幕投手を務め、リーグ最多の31先発で10勝をあげ中日のリーグ連覇に貢献。しかし援護率がリーグ最低レベルで味方打線の援護のなさに泣かされ、14敗と負け越している。本人いわく「中4日で投げないと調子が上がらない」とのことで、イニングを稼いで他の投手の負担を減らした点も大きかったといえよう。
2012年は怪我で登板機会が減少し、この年限りで中日を退団した。その後ベネズエラ、韓国、メキシコ、そして地元ドミニカを転々としながら現在もプレーを続けている。
名前が似て非なる国、ドミニカ共和国とドミニカ国
ちなみに、ネルソンをはじめとしたプロ野球選手を多く輩出しているのは ドミニカ共和国 である。ドミニカ共和国はカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の2/3を占める国(残り1/3がハイチ)で、元はスペイン領(フランス領の時期もあり)で公用語はスペイン語、面積は九州と山口県と島根県を合わせた程度である。ドミニカ共和国には19世紀後半にはアメリカ経由で野球が伝えられ、野球が国民的スポーツとして定着していった。ドミニカ共和国の選手が毎年在籍するため、中日には日本人選手でもスペイン語を多少話せる選手がいる。
似た名前の国としてドミニカ国があるが、こちらはカリブ海に浮かぶドミニカ島全土を領土とする旧イギリス領(フランス領の時期もあり)の国で公用語は英語、面積としては福島県郡山市とほぼ同じくらいである。なおドミニカ島内にポータルは現在存在しない模様。
ドミニカ共和国とドミニカ国、よく混同されるのでお間違いなきよう。
- #48 伊志嶺忠(東北楽天ゴールデンイーグルス)
- 2007年のドラフト会議で楽天へ入団、2018年シーズン限りで現役を引退。2019年から楽天のブルペンキャッチャーとなる。
愛称は「シーサー」。沖縄県出身だからといって安易すぎではないだろうか。
嶋基宏という正捕手が居たため、一番多く出場したシーズンでも2015年の54試合(一塁手・外野手としても含む)、捕手に限定すると2011年の31試合が最高という、お世辞でも活躍したとは言えない成績である。
しかしながら、捕手という特殊なポジションということもあり、プロ野球で11年間続けることが出来、最後には球団主催の引退セレモニーまで行ってくれるという好待遇である。
NHKBSで不定期放送されている番組、球辞苑の「ブルペン」の回の元ロッテの捕手・里崎智也氏曰く「裏方のスタッフも含めたプロの世界のキャッチャーは不足しており、『ブルペンキャッチャーは取り合い』」ということである。
実際に他球団で戦力外となった捕手を、自球団でブルペンキャッチャーとして契約する場合もあるほど。
伊志嶺の場合は現役を務めていた球団でブルペンキャッチャーの道を歩き始めるため、投手を知っているということが大きなアドバンテージになるだろう。
- #48 SBM48(福岡ソフトバンクホークス)
- 福岡を拠点に活動していたユニット。
HKT48ではない。
S (攝津正)
B (ブライアン・ファルケンボーグ)
M (馬原孝浩)
背番号 48 (甲藤啓介)
の4人で構成された、いわゆる勝利の方程式。
親会社のグループ企業「ソフトバンクモバイル」(略称:SBM)にあやかって名付けられた。
7回摂津、8回ファルケンボーグ、9回馬原、7~8回の接戦時に甲藤、という担当だった。
2010年には、4人とも50登板以上で防御率2点台以下(ファルケンボーグや馬原にいたっては1点台)という安定感であった。
しかし2011年、摂津の先発転向によりSBM48は解体。
メンバーで唯一現役を続けていた摂津も、2018年限りで引退をしたため、SBM48関係者はすべてプロ野球という舞台から去ることになった。
ちなみに画像にある「ちょ」とは、森福允彦のニックネームであり、彼もSBM48のメンバーとして数えられることもある。
(その場合の呼称は「SBM48ちょ」[えすびーえむふぉーてぃーえいちょ])
- #47 別所毅彦(南海ホークス-読売ジャイアンツ )
- 1シーズンにおける最多完投の記録保持者(1947年: 47 試合)。
1947年、南海時代の別所は55試合(うち先発50試合)に登板、448回1/3を投げての成績は30勝19敗。
投球回・勝利数ともにその年のリーグ最多記録である。
71日前のカウントダウンの回で「9イニングでの最少投球完投(71球)」の投手を取り上げたが、こちらの別所は「8イニングでの最少投球完投(67球)」の参考記録保持者でもある。
現代野球で47完投を考えると、1人の投手が通算成績で達成できるかどうかのレベルの話である。
2019年時点での現役投手で47完投を上回っているのは松坂大輔(72完投)、上原浩治、涌井秀章(ともに56完投)の3人しかいない。
その他の完投試合数が多い投手として、菅野智之が31完投(5.2完投/年)、則本昂大が29完投(4.8完投/年)であり、この2人はこのままのペースで行くと47完投を超えられそうな雰囲気である。url=http://url=http://url=
- #46 三浦大輔(横浜大洋ホエールズ)
- ハマの番長こと三浦大輔が、入団時につけていた背番号 46 。
番長というニックネームは、髪型をリーゼントにしていることから来ている。よくブログに上げている自撮り写真は、いつも同じ位置に三浦が写っており、まるでフォトフレームのようだとファンには番長フレームと呼ばれている。
そんな番長の名が見た目だけではないことを示したのは、2008 年オフのFA宣言時である。
熱烈なラブコールを送る阪神から誘いを断り、横浜に残留を選択。「生涯横浜」を決めた。
23年連続シーズン勝利(NPB)、24年連続シーズン安打(投手として歴代1位)、21シーズン連続二桁先発記録など、長年先発を守った勲章ともいえる記録をつくり、惜しまれつつも 2016 年オフに引退。
投手陣の整備が課題の横浜DeNAベイスターズに、2019 年から一軍投手コーチとして戻ってくる。横浜ファンの期待を込めて。
- #45 両チーム1試合最多総安打
- 2003年7月27日、福岡ダイエーホークス対オリックスブルーウェーブ戦で記録。
1試合でダイエーが32本、オリックスが13本、合計 45 本のヒットを放った。
スコアは、ダイエー26-7オリックスという大差だった。
その中でもダイエー・城島健司は7打数6安打7打点という大活躍だった。NPBで1試合の安打記録では7本が最高であり、城島はあと1本足りなかった。
オリックスは先発・吉井理人が1アウトしか取れず(被安打5)、2番手・本柳和也に至ってはアウトが取れず(被安打4)、3番手・相木崇も含めて1回裏に11失点を記録している。
現地観戦していたオリックスファンはどう思ってたんでしょうかこれ。
ダイハード打線恐るべし。
- #44 小池正晃(横浜DeNAベイスターズ)
- 横浜高校では1998年に松坂大輔らとともに甲子園春夏連覇を果たす。同年ドラフト6位で横浜に入団。愛称は「ゴジ」(顔が松井秀喜に似ているという理由らしい)。
3年目にプロ初出場を果たすが、なかなかレギュラーに定着できない時期が続いた。2005年に中日に移籍したタイロン・ウッズの背番号を引き継ぎ、背番号を入団当初の56から 44 に変更すると牛島和彦監督のもとで2番レフトでスタメンに定着。怪我がちだった多村仁が離脱中はセンターも守った。牛島監督が退任した2007年以降は再び外野手のレギュラー争いに巻き込まれ出番が減少。
2008年シーズン途中に外野手の離脱が続いた中日へトレード移籍(石井裕也との交換)。外野手としてレギュラーに定着する。2009年、 またも 中日を退団したウッズの背番号を引き継ぎ、石井が着けた番号を引き継いだ30から 44 に変更した。この年の中日の外野はレフト和田一浩以外は固定できておらずライトは小池のほか藤井淳志、李炳圭、野本圭らとの併用であったが、相手先発が左投手の時はスタメンで、それ以外では代打や守備固めで起用された。2010年は不調で出番が減少。
2011年は打撃が好調でライトだけでなくトニ・ブランコの負傷離脱中はファーストでもスタメン起用された。ソフトバンクとの日本シリーズ第1戦では延長10回表に馬原孝浩から決勝打となる勝ち越しホームランを放つ。なお第2戦は延長10回表に森野将彦がまたも馬原から延長10回表に決勝タイムリーを放ち、下馬評で「これはソフトバンクの4タテで終わるのでは?」と思われるほど圧倒的不利と言われていた中日はビジターの福岡でまさかの2連勝となった。打撃などで活躍を期待された小池だったが、第5戦で松田宣浩の打ったライトフライ捕球の際に外野フェンスにぶつかり負傷。第6戦以降は試合出場がなかった。
(ちなみに中日ファンの中の人、第1戦・第2戦とも福岡へ観戦に行ってました。第1戦は中継を放映するフジテレビの都合でデーゲーム開催となっており、新幹線の始発で東京から向かったところ遅延で試合開始に間に合わず4回あたりからやっと観戦。遠征してよかった…なおホークスファンの福岡の友達からは…)
2011年オフにFA権を行使して古巣のDeNAに復帰した。2013年現役引退。引退試合では7番ファーストでスタメン出場し、4打数3安打2本塁打3打点を記録。4回に勝ち越しの2ラン、現役最後の打席となった8回にはダメ押しのソロを放ち有終の美を飾った。
小池の実家は横浜市保土ケ谷区にあるお茶屋である。引退後は店を継ぎたいとも語っていた( https://number.bunshun.jp/articles/-/705629 )が、DeNAに残り現在もコーチを続けている。
- #43 白村明弘(北海道日本ハムファイターズ)
- 白村は「はくむら」と読む。
慶大1年時に右肩を負傷。2年時には素行不良により謹慎処分を受けていた。謹慎明け後も150km/hを超える速球を投げられる素質はありながら、練習嫌いもあって精彩を欠く投球が続く。慶大時代の同期の選手はテレビ番組のインタビューで
白村が 投げる打たれる やっぱりな
と当時の白村を評した。五七五にきれいに収まるこのフレーズはネットを中心に有名になり、プロになってからも谷元圭介(現中日)らチームの同僚からもネタにされている模様。
2013年ドラフト6位で日本ハムに入団。背番号は 43 。プロ1年目からリリーフで登板し、プロ初セーブを記録。2年目の2015年に50試合に登板し1勝1敗13ホールドを記録し、リリーフ陣の一角に食い込む。しかし2016年以降は低迷。2017年には転向を見据えて2試合先発も経験したがどちらも敗戦投手となり、リリーフでも打ち込まれる場面が増えた。2018年も低迷から抜け出せずわずか3試合の登板に終わる。本人は
白村が 投げる抑える やっぱりな
と言われるようになりたいと意気込んでいるが、ここ数年は結果が出せず苦しんでいる様子。
プロ入り後は打席に立ったことがないが、指名打者制のない高校野球・東京六大学野球では打撃のセンスも評価されており、大谷翔平に続く二刀流挑戦選手の候補として挙げられたこともある( https://www.daily.co.jp/baseball/2016/12/14/0009749314.shtml )。どのような形で結果を出すかは今後次第だが、このまま身体能力の高さを腐らせてしまうにはもったいない選手であることには間違いないだろう。
- #42 坂口智隆(東京ヤクルトスワローズ)
- 2002年、大阪近鉄バファローズにドラフト1位で入団。現在野手として現役を続けている最後の近鉄選手でもある超イケメン(中の人の感想です)。背番号 42 。
高井雄平(ヤクルト、現在の登録名は雄平またはゴリラ)のハズレ1位での獲得だったが、現在はヤクルトでチームメイト兼外野守備を争う関係。
愛称はグッチ。全国の坂口さん及び●口さんという苗字において、超あるあるなベタすぎる呼び方。
2003年シーズン10月に近鉄で一軍デビューし、その後も着実にキャリアを重ねる、かと思いきや、まさかの球団合併。坂口自身はオリックスでプレーすることになり、そこからまた外野手としてのキャリアが始まる。
2008年から4年連続でゴールデングラブ賞を取るほどの守備の人。 が、その後の怪我に苦しみ、2015年オフにオリックスを自由契約で退団し、ヤクルトへ。
オリックスさん、ありがとうありがとう。
2018年シーズンは、雄平がライト、坂口が一塁手での出場が多かった。ライトスタンドから見守る中の人的には、坂口に外野にいてほしい(勝手)。
キャリア16年目にしての、そしてあまり例のない外野→内野へのコンバート。ゴールデングラブを取るほどの慣れ親しんだポジションを、その練習量でカバーする熱血の人。
ショーアップナイタースペシャルから、その守備にかける思いをどうぞ。
「(1塁の守備に)慣れていくことはないと思いますけど、下手くそは下手くそなりに練習して、ちょっとずつでも成長できればチームのためにもなりますし、自分のためにもなります。練習はしっかりやっていきたいと思います」
- #41 雄平(東京ヤクルトスワローズ)
- 鍛え上げたゴリラ並みの筋力と恵まれたセンスで、三邪飛を量産する背番号 41 。
球界屈指のスイングスピードを誇る左打者なのに何故…と疑問を挟んではいけない。
「選球眼?なにそれ?おいしいの?」
とばかりに、ボール球でもおかまいなしに振りまくる。
オリックス コーディエとの、一切ストライクは投げてないのに三振食らったあの打席は「平成の名勝負」として語り継がれている。
そんな彼が、2018年34歳にしてキャリアハイの打率.318(得点圏打率.356)という数字を残したのは、やきう界の七不思議の一つ。
- #40 藤瀬史朗(大阪近鉄バファローズ)
- 出塁した走者に代わって出場する選手のことを「代走」といいます。
珍しいところでは、1991年の彦野利勝(中日)のように、サヨナラ本塁打を打って一塁をまわったところで転倒した結果、負傷により(後日、右膝靭帯断裂と判明)その後の走塁ができなくなったために代走の選手が起用された、なんてケースもあります。
普通は、足の遅い選手が出塁した場合、出塁した選手に代わり足の速い選手を代走に起用することが多く、例えば一塁走者に代走を送った場合は、隙を見て盗塁し、そのあとワンヒットでホームへ戻り得点を狙う、という起用法が考えられます。
MLBでは投手の前田健太(ロサンゼルス・ドジャース)が代走起用された、なんて例もありますし、NPBでも投手の代走起用の例がないわけではありませんが、基本的には、控えの野手で足の速い選手が代走として起用されることがほとんどです。
最近では例えば鈴木尚広(巨人)、高波文一(阪神→西武→楽天→オリックス)などが代表例でしょう。古くは、外野手としてのレギュラー獲得前の松本匡史(巨人)は代走起用がほとんどでした。また、話題作りを兼ねて、ロッテが短距離走のオリンピック選手であった飯島秀雄をドラフト指名して実際に代走起用したこともありましたが、走力ほどの大活躍はしませんでした。
さて、そんな代走として起用されることが多かったのが藤瀬史朗。
桜宮高校から大阪体育大学を経て、1975年に入団テストを受けて近鉄入団。藤瀬は、高校、大学と野球部に所属してはいましたが、別にプロを目指していたわけではなく、たまたま受験した入団テストの結果、足の速さを見込まれて合格、となりました。
入団直後の1976年には1軍出場はありませんでしたが、以後1977年に1軍出場を果たすと1984年まで現役選手として近鉄に在籍、特に代走として活躍し「近鉄特急」と呼ばれ、その後1985年から1995年まで走塁コーチを務めたあとフロント入りし、2004年の球団解散まで、近鉄一筋のNPB生活を送りました。
背番号は76→40→86と変遷しています。
そんな藤瀬の総盗塁数は117、総盗塁死数は28ですが、代走での盗塁数は105、盗塁死数は23で、代走時の盗塁成功率は.820を記録しています。これは、代走として出場した場合には必ず盗塁を警戒されることを考えると、相当高い盗塁成功率、ということができます。ちなみに、「世界の盗塁王」福本豊の盗塁成功率は.781です(盗塁数1065、盗塁死数299)。
藤瀬の代走での盗塁数105は、先述の鈴木尚広に抜かれるまで、NPB記録でした。なお、鈴木の代走での盗塁数は132です。また、代走としてのシーズン盗塁数のNPB記録は、藤瀬の25盗塁(1979年)です。ちなみに、1993年には、2リーグ制移行後最小の盗塁数であるシーズン24盗塁で、緒方耕一(巨人)・石井琢朗(横浜)が盗塁王となっています。
そんな藤瀬は、意外に目立つところで登場しており、現役時代は「江夏の21球」で知られる1979年日本シリーズ第7戦で、9回に代走として起用され、二塁盗塁後さらに三塁へ進み、この後のスクイズが外された際に挟殺されています。近鉄ファンの筆者としては思い出したくないシーンのひとつですが。
また、1988年のいわゆる「10.19」の際には、一塁ベースボックスにコーチとして立っていました。
フロント入りしてからも、1998年12月1日に、契約交渉を無断ですっぽかし「今日は11月31日だと思っていた」との弁明?を行った前川勝彦に待ちぼうけを食わされたのが契約交渉担当だった藤瀬でした。
#39~#30
- #39 工藤隆人(中日ドラゴンズ)
- 今年で 39 歳を迎える松坂大輔(中日)と同学年の選手、いわゆる松坂世代の選手も多くが引退し、今年もNPBで現役を続けるのは8名となった。その一方で指導者へ転身した選手もおり、平石洋介は昨年の監督代行を経て、今年から正式に楽天の監督に就任した。松坂世代の選手で結成した昭和55年会の縁もあってか、昨年引退した後藤武敏(元DeNA)、小谷野栄一(元オリックス)が新たに楽天のコーチに就任している。
さてそんな指導者へ転身した松坂世代の選手の中で、今日は工藤の話を。
2004年ドラフト9巡目で日本ハムに入団。なお、この年の1巡目で指名されたのがダルビッシュ有である。1年目は二軍で主に活躍し、シーズン終盤にプロ初出場を果たす。日本ハムがリーグ優勝・日本一となった2006年は一軍出場なし。
2007年はシーズン中盤から一軍登録されるとプロ初安打を記録し、レフトのレギュラーを獲得しリーグ連覇に貢献。2008年は104試合に出場したが、レフトは新加入のターメル・スレッジがレギュラーとして固定され、打撃が伸び悩んだことから代走・守備固めでの途中出場が多かった。この年オフに二岡智宏・林昌範との交換トレードで、マイケル中村とともに巨人に移籍。
巨人では外野手のレギュラー争いになかなか勝てず出番が少なかった。2011年、サブロー(大村三郎)との交換トレード(金銭付き)でロッテに移籍。守備では定評があったが打撃は相変わらず不調で移籍後ほどなくスタメンから外される。移籍した年はサブローの背番号であった3を着けていたが、翌年FAでサブローがロッテに復帰すると背番号を25に変更した。2013年は一軍出場がなく、この年でロッテを戦力外となった。
2013年オフの12球団トライアウトにて、トライアウト出場選手を「宝の山」と評していたGMに就任したばかりの落合博満の目に留まり中日に入団。落合の著書でバッティングの技術や練習法といった写真撮影などに、プロ入り前の工藤が在籍していたJR東日本硬式野球部が協力しておりこの頃から落合と接点があった。ほか、東北出身、NPBでの在籍球団が日本ハム・巨人・ロッテ・中日と在籍順は違えど一致しているなど、工藤と落合の共通項は多い。
2014年は序盤に負傷離脱したが、シーズン終盤に一軍に復帰するとプロ10年目で初本塁打を放った(現役で打った本塁打は結局この1本のみ)。2016年はレフトのスタメンだったリカルド・ナニータに代わり代走・守備固めで途中出場することが多く、少ない機会ながら打撃でも結果を残した。その後も代打・代走・守備固め、そしてベンチのムードメーカーとして二軍落ちすることなく一軍に帯同を続けたが、2018年をもって現役を引退。2019年からは中日の一軍外野守備走塁コーチに就任したので、中日攻撃中のコーチャーズボックスで工藤の姿をよく見かけることになると思われる。
日本ハムに3年、巨人に2年強、ロッテに2年弱とここまではいずれの球団でも在籍期間が短かったが、ロッテを戦力外となった後の中日では5年と他球団より長く在籍した。またシーズン出場試合数のキャリアハイこそ日本ハム時代の2008年だが、一軍帯同期間の長さを考えれば中日時代に「細く長く」活躍した選手といえよう。2004年の日本ハムのドラフト指名選手では唯一ダルビッシュがMLBで現役を続けているが、同じく昨年引退した8巡目の鵜久森淳志(ヤクルト)と並んで2番目に長く現役を続けた。工藤・鵜久森ともドラフトでは下位での指名だったが息の長い選手生活を送ったといえる。
なお現役晩年に同僚となった松坂と同学年であるが、工藤は1981年の早生まれなので39歳になるのは来年である。
- #38 武田勝(北海道日本ハムファイターズ)
- 名古屋市出身。幼少時は地元・中日のファンで試合を観にナゴヤ球場によく通っていた( https://www.zaikaisapporo.co.jp/sports_fighters/%e6%ad%a6%e7%94%b0%e5%8b%9d )。
高校は東京の関東一高に進んだため、この時にはすでに名古屋の実家を離れていた。プロ入り後ナゴヤドームでの中日との交流戦がてら実家に帰ろうとしたところ、実家が引っ越していたが引っ越し先がわからず帰れなかったエピソードもある。
岩本勉、SHINJO、森本稀哲、杉谷拳士など喋りが達者な歴代選手が多い日本ハムだが武田もトークスキルの高い選手で、狙っているのか天然なのか判断が難しいところもあるがネタになるエピソードには事欠かない。
2005年大学・社会人ドラフト4巡目で日本ハムに入団。背番号は 38 。先にプロ入りしていた同姓の武田久(現日本通運硬式野球部選手兼任コーチ)とは同い年、同じ社会人野球出身でプロ入り前から交流があった模様。不調時や負傷時でも無表情と感情を顔に出さず、肘の故障を繰り返し曲がりっぱなしで可動域が少なくなった左腕から、一度球を持ち替えるような独特のフォームで130km/hと遅いストレートをさらに遅い変化球を駆使して緩急と配球で打ち取る投球スタイルで活躍した投手である。中の人はこのフォーム(と投球スタイルとキャラクター)のファンだったのだが、武田本人は自身のフォームを「気持ち悪い」と評していた模様。
社会人時代は野村克也監督率いるシダックス硬式野球部に所属。プロ初登板はその野村監督がNPBに復帰したばかりの楽天との対戦であった。日本ハムの先発・江尻慎太郎が負傷降板したため急遽リリーフ登板し初勝利も記録。この年はシーズン途中で打球を左手に受け負傷離脱するまではリリーフ登板が中心だったが、復帰後は先発に転向した。中日との日本シリーズでは第3戦に先発し、史上7人目となる新人での日本シリーズ初登板初先発初勝利を記録した。ちなみに史上6人目はその前の第2戦で日本ハム同期入団の八木智哉が記録している。
2007年もシーズン開始当初はリリーフ要員だったが途中から先発ローテーション入り。日本ハムのパリーグ連覇に貢献した。地元ナゴヤドームで中日との日本シリーズ第3戦に先発したが、初回から滅多打ちを食らいアウト1個とっただけでノックアウトされてしまった。ちなみに中の人は出張先の那覇空港で中継を見ており、飛行機の時間の関係で最初の1回しか見れなかったがあまりの初回炎上ぶりにさすがにもう試合は決まっただろうと思った記憶。風呂にでも入るか的な展開も特に起こらなかった試合であった。結局ポストシーズンの勝利は前出の2006年の日本シリーズ第3戦のみで、これ以降勝ち星を挙げることができなかった。
その後も先発として活躍し、2010年にはチームトップの14勝を挙げた。
2011年は歴史的な投高打低の年であったが、防御率リーグトップに躍り出る好投をするも報われず、5試合連続完封負けというNPB新記録を樹立し「そうか、そう来たか」と何かを悟ったようなコメントを残す( https://web.archive.org/web/20110728235153/http://www.fighters.co.jp/game/scoreboard/comment/2011061401.html )。その後は連勝を重ね、地元ナゴヤドームでオールスターゲームに初出場。4回から2番手で登板したが、5回1死から、全セ落合博満監督に「ホームランを狙え」と打席に送り出された荒木雅博(中日)に狙い通りに打たれた2ランを皮切りに1イニング4被本塁打8失点、1+1/3回を投げ1試合9失点というオールスター新記録を作ってしまった(なお中日ファンであり落合ファンでもある中の人は落合監督の野球殿堂入り表彰目当てで生観戦していたが、武田のあまりの打たれっぷりに自然と乾いた笑いが…)。8月まではリーグ最優秀防御率争いをしていたものの、終盤に失速し防御率2.46、11勝12敗。援護率の低さの影響を大きく受けリーグ最多敗戦となった。
2012年はリーグ最多の28先発、11勝7敗防御率2.36とキャリアハイの記録を残し日本ハムのリーグ優勝に貢献。2013年は開幕投手を務め8勝7敗防御率3.97。2014年は3勝4敗防御率5.98と打ち込まれる場面が増えチーム事情もありリリーフに配置転換された。2015年は登板機会が激減し、2016年はシーズン終盤まで一軍出場機会がなく現役引退を表明。引退会見後に札幌ドームでリーグ優勝間近の試合を控えるチームの円陣に加わり
俺のために優勝しろ 武田勝
と、普段の武田のキャラクターにおよそ似つかわしくない言葉を太マジックで大書した紙を掲げた。この様子を海の向こうで見ていた元同僚・ダルビッシュ有がTwitterでこの文言のTシャツ化を要望( https://twitter.com/faridyu/status/781175823067787266 )し球団も即対応し一般販売もされたが即完売。クライマックスシリーズでは練習時に選手がこのTシャツを着用したが、Tシャツには武田が個々の選手に送る言葉も書き加えられた。なお中の人も購入しMD大阪にて着用していたところ、大阪城公園のたこ焼き屋のお姉さんから「何ですかそれ?面白いTシャツですね」というお言葉をいただいた模様。引退セレモニーではチームで取り組む北海道の町おこし活動で出会い、趣味となったオカリナ演奏を披露した。そして武田の言葉に応え、日本ハムはこの年リーグ優勝、そして日本一に輝いた。
北海道テレビ(HTB)制作の番組「水曜どうでしょう」の藩士(ファン)としても知られ、試合登場曲には番組エンディングテーマ「1/6の夢旅人2002」の2コーラス目を使用。この曲を歌う樋口了一も武田の引退試合に駆けつけ生演奏を披露した。かつて開設していた武田の個人公式ウェブサイトでは、番組がきっかけで全国的な知名度と人気が高まったHTBのマスコットキャラクターの着ぐるみ・簡易onちゃんを着用してPCを操作している写真が掲載されていたほど。また番組スタッフとも交流があり、HTBの番組に出演する際は番組スタイリスト・小松江里子の手でおもちゃにされ、芸人同然の被り物や衣装、メイクで出演することもある。
引退後は日本ハム球団職員の身分でルートインBCリーグ・石川ミリオンスターズに出向しコーチおよびフロント業務を担当。2018年からは監督を務める。石川でも現役時代に引き続き背番号 38 を背負い、選手にとって居心地のよい存在という意味で「入浴剤」のような監督になりたい、という相変わらず計算なのか天然なのか判断に困るたとえで監督としての意気込みを語っている( https://www.zaikaisapporo.co.jp/sports_fighters/%e6%ad%a6%e7%94%b0%e5%8b%9d-3 )。選手をじっくり観察し自主性に任せる方針を基本にしながら、指導者として歩みを進めている。
- #37 前田幸長(読売ジャイアンツ)
- 1988年ドラフト1位でロッテに入団。
1989年春季キャンプで早速1軍に合流したところ、2月14日にファンから大量のチョコレートが贈られた。その数はおよそ1500個と言われ、当時ロッテの投手コーチだった植村義信から「チョコ」のあだ名を付けられる。前田も引退後には自身のブログのタイトルに入れていたりするほど受け入れている。ちなみに、さすが親会社が大手菓子メーカーなだけあって、2017年からロッテは毎年2月上旬に公式サイトで「あなたがチョコを渡したい選手を大募集!」という企画で選手に対して投票を受け付けており( http://lotte-shop.jp/shop/e/emarivt19/ )、成田翔が3連覇を果たしている。
1年目から先発7試合を含む17試合に登板し2勝を挙げる。1990年から先発ローテーションの一角に食い込む。甲子園に出場した高校時代からルックスと戦国武将っぽい名前で人気があり、チームの顔といえる選手であった。オリオンズ時代に球団が発行していたフリーペーパー「URE-P」はプロ野球選手をアイドル的にとりあげる雑誌の走りとも一部で言われているが、その中でも比較的違和感なく前田がアイドル的に表紙を飾った様子は、ZOZOマリンスタジアム横にあるマリーンズミュージアムで見ることができる( http://blog.livedoor.jp/boomer44/archives/51087306.html )。1990年から4年連続で20試合以上先発したが、5位→最下位→最下位→5位と低迷するチームで勝ち星は伸び悩み2桁勝利はならなかった。
その後徐々に調子を落としリリーフ登板が増える。1995年はボビー・バレンタイン監督のもとチームは2位に躍進したが、3勝6敗防御率5.10と結果を残せなかった。オフに平沼定晴・樋口一紀とともに、仁村徹・酒井忠晴・山本保司とのトレードで中日に移籍。
余談だが、このトレードで中日に山本姓の選手が1人しかいなくなったため、1991年に山本保司が中日に入団してスコアボードが「山本昌」表示になってから最多勝・沢村賞を獲得する活躍を見せた山本昌広は、この縁起のいい名前を引き続き使うため登録名を「山本昌」に変更し、引退後の現在でも本名ではなく「山本昌」を名乗ることが多い。また、平沼は1986年オフに落合博満とのトレードで中日からロッテに移籍したが、このトレードで10年ぶりに中日に復帰している(現在も球団職員として中日に在籍)。そして酒井も2002年オフに波留敏夫とのトレードで中日に復帰した(その後球団創設直後の楽天に移籍、現在楽天コーチ)。
中日では1996年・1997年と先発ローテーションの一角を占めたが、調子を落とし1998年からリリーフに転向し活躍。1999年のリーグ優勝にも貢献した。リリーフに転向したもののチーム事情で先発登板の機会も多かった。2001年オフにFA権を行使して巨人に移籍(人的補償で平松一宏が中日に移籍)。移籍後もリリーフで活躍する。
2007年オフ、 37 歳でMLB挑戦のため巨人に自由契約を申し入れ退団。2008年レンジャーズとマイナー契約するがメジャー昇格はならず引退を表明。現在は野球解説、タレント業、および少年野球チームの運営に携わる。
この時期は前田と同い年の斎藤隆(学年は早生まれの斎藤が1個上)が2005年オフに横浜からドジャースに移籍し大成功を収めたことや、2006年オフに38歳で海を渡った桑田真澄の例などもあってか、30代中盤〜後半でMLBに挑戦する日本人投手が多かった。
ちなみに2010年6月4日にABCテレビで放送された「探偵!ナイトスクープ」に前田が出演している(この回は3つの依頼がすべて野球関連であった https://www.asahi.co.jp/knight-scoop/archive.html?datetime=20100600 )。中日と麻雀が大好きな名古屋在住のおばあちゃんの孫からの依頼で、「中日の選手と卓を囲みたい」というおばあちゃんの願いを叶えて欲しいというもの。おばあちゃんは立浪和義の大ファンでできれば立浪を面子に入れたいとのことだったがスケジュールの都合で叶わず、中日OB -………?- の板東英二、野口茂樹、そして前田の3人で卓を囲み、最後に野球解説の仕事を終えた立浪が現れサイン入りグッズをおばあちゃんにプレゼントするという素晴らしい内容であった。
カカオ分90%台⇔70%台のチョコレートを交互に口にして、人生の苦味と渋味を味わいつつ心の平穏を取り戻そうとすることがよくある中の人による本日のカウントダウンでした。
- #36 伊勢孝夫/クラッチヒッター(大阪近鉄バファローズ)
- 「クラッチヒッター」という言葉があります。チャンスで打席が回ってきたときに、やたら活躍する選手のことで、松井秀喜もMLBではこう呼ばれたりしていました。「勝負強い」とか、「ランナー出てるとよく打つ」とか、まあそんなイメージですね。なお、具体的に得点圏打率がどの程度だから「クラッチヒッター」という基準があるものではなく、「記録よりも記憶」的な選手ともいえます。
そんな「クラッチヒッター」のひとりである伊勢孝夫は、いまやコーチや評論家としてのイメージが強いのですが、三田学園高校から1963年に近鉄入団。現役時代は主に一塁手として活躍し、近鉄(1963→1976)→ヤクルト(1977-1980)と現役生活を送りました。一軍出場は1967年からで、この間背番号は55→36→9→37→10、と変遷しています。
ヤクルトコーチ時代にノムさんの薫陶を受けたからか、打撃コーチとしての評価が特に高い伊勢の現役生活は実働14年で1042試合出場、2,325打数570安打、通算打率.245で、規定打席に達した年も1年のみ(1972年)と、成績面からは割と地味です。
ただし、チャンスには大変強く、いいところで打つので「伊勢大明神」「お伊勢さん」などと呼ばれました。レギュラーであったのは近鉄時代の一時期ですが、1971年にはシーズン84安打中、本塁打28本という、なかなか怖いバッターであるところを見せています。
カウントダウン40日の藤瀬史朗の回で、本塁打を打った後の打者走者の代走について触れましたが、このようなケースのNPB第1号の代走が実は伊勢で、1969年に本塁打を打ったジムタイルが肉離れを起こしたため、その代走として起用されています。
なお、ジムタイルはMLBで打点王を獲得したことのある選手ですが、シーズン通じてまともに走れる状態ではなかったこともあり、塁に出れば代走が出たため、この年のNPBで「本塁打数(8)より得点(7)が少ない」というわけのわからない記録を残しています。
また、伊勢はこの試合、ジムタイルの代走として本塁を踏んだ際に、対戦相手の阪急の捕手だった岡村浩二から「ホームランを打った気分はどう?」と冷やかされたそうですが、伊勢はそのまま守備に入り、同点で回ってきた打席で今度は自分で決勝本塁打を打って近鉄の勝利に貢献しています。
ノムさんの南海での現役時代には近鉄にいた伊勢とは当然敵同士で、そのためかノムさんの”ささやき戦術”を破るための伊勢の対抗手段、なるエピソードが残っています。
ノムさんが何かささやくと、タイムをとっていきなりおならをして、その臭いでノムさんがささやくどころでは無くなった、という”ささやき戦術”破りですが、真偽のほどは不明です。同じ手をノムさんに対して、西鉄時代の竹之内雅史(後に阪神)も使ったとの説がありますが、さて?
- #35 牧田和久(サンディエゴ・パドレス)
- 静岡県焼津市出身。ちなみに増井浩俊(オリックス)、川端崇義(元オリックス)も焼津市出身、かつ牧田と同学年で全員所属はバラバラながら高校・大学・社会人をすべて経ている球歴も共通している。高校1年時にアンダースローに転向。
2010年ドラフト2巡目で西武に入団。背番号は 35 。2011年のシーズン当初は先発で起用されて好投していたが、打線の援護が得られず勝ち星は重ねられなかった。その後救援陣が崩壊しているチーム事情もあってクローザーに配置転換。これがはまってこの年22セーブを挙げ新人王を獲得した。
投球テンポが異様に早く、キャッチャーからボールが返ってくるとすぐ投球動作に入ることも多い。また、同じアンダースロー、渡辺俊介(元ロッテ、現新日鐡住金かずさマジックコーチ)のピッチングを参考にタイミングをずらすピッチングを意識しており(なお渡辺はこれについて黒木知宏と工藤公康の会話にヒントを得て意識するようになったと語っている)、塁上にランナーがいなくてもクイックモーションで投げることがある。無走者時のクイックモーションを批判する選手もいる(楽天時代の山崎武司など)が、これも投球術のうちであろう。また、逆に渡辺からは渡辺自身がなかなか投げられず苦労したチェンジアップの投げ方を教えて欲しいと頼まれたことがある模様。
2012年以降は主に先発で好投を続けた。2012年は13勝を挙げたが、2013年・2014年はともに援護の少なさに泣き8勝止まりであった。その一方で2013年のWBC日本代表としてはクローザーとして登板し活躍した。2015年は開幕投手を務め引き続き先発で投げていたが、同じ静岡県出身のクローザー・高橋朋己が不調だったため再びクローザーに配置転換された(シーズン終盤に先発に再転向)。
登録上は右投右打であるが、高校時代にスイッチヒッターも経験しており2013年5月15日のヤクルトとの交流戦(神宮球場)では「左の方が打球が飛びやすい」という理由で第1打席・第2打席は左打席に立っている(結果はどちらも三振、なお第3打席は右打席に入ったがまたも三振であった。 https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/16/kiji/K20130516005814010.html )。至近距離で見る牧田のブルペン投球&引きの画で見る神宮レフトスタンドの西武のチャンステーマ2の応援目当てで三塁側内野指定席Bの最前列にてこの試合を中の人は生観戦していたが、牧田が左打席に入ると客席がどよめき球場に妙な空気が漂った記憶。いずれにしても貴重な場面に立ち会えました。
2016年はリリーフ専任であったが、勝ち試合におけるセットアッパーだけでなく、先発が早い段階で打ち崩された際にはロングリリーフで試合を立て直す役割も担い、「とりあえず牧田」的な便利屋起用ながら7勝25ホールドを挙げた。2017年もリリーフ専任で3勝28ホールドを挙げ、オフにポスティングによるMLB挑戦を球団に直訴、受諾されパドレスに移籍。
西武時代の背番号 35 がパドレスでは1970年代に活躍した投手ランディ・ジョーンズの永久欠番であるため、牧田は35を逆にした背番号53を着けている。国際試合では結果を残してきた牧田だがMLBでは成績がふるわず。2018年のメジャーの試合では27試合登板0勝1敗2ホールド、防御率5.40でマイナーとの往復を繰り返した。このピッチングがMLBで通用しないとは思えないので、結果を残して欲しい。
- #34 篠原貴行(福岡ダイエーホークス→福岡ソフトバンクホークス→横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズ)
- 松坂大輔投手が高卒ルーキーにも関わらず最多勝(16勝)に輝いた1999年。
2年目の篠原貴行投手(背番号34)は速球を武器にしたセットアッパーという立場でその座を争っていました。
結果は60試合に登板し14勝1敗で最多勝は逃すも最高勝率を獲得。
ホークスの26年ぶりのリーグ優勝と35年ぶりの日本一に大いに貢献し、投げると負けない不敗神話、ペドラザとの勝利の方程式がホークスファンにはとても印象深いものでした。
翌年も中継ぎのまま9勝しリーグ連覇に貢献しましたが、その後は怪我などもあり登板機会を減らし、戦力外となったホークスから移籍し2010年からベイスターズでプレーし2013年に現役引退しました。ホークスは彼が入団する前年まで20年連続でBクラス(プロ野球ワースト記録)で低迷していました。
そんな弱くて弱くて負けることが当たり前になっていたチームが徐々に勝つことを覚えその後優勝できるほどのチームになった頃、目立つ人気選手や有名選手が数多くいる中、なかなか陽の目が当たらなそうな役回りでも、その貢献ぶりをファンに認めさせたのはすごいことだと思います。
そもそもプロ野球入りする前も甲子園にも出ず社会人でも全国大会には出ない目立たない境遇のまま実力である武器の速球が認められドラフト2位指名を受けた彼には当然のことだったのかもしれません。現在は昨年までのベイスターズの投手コーチからスカウトになったそうです。
今後は彼が見つけた目立ってはいなかったけれど実力は一流のすごい選手が活躍するのを楽しみにしています。url=http://url=http://url=
- #33 市川和正/トリックプレー(横浜大洋ホエールズ)
- トリックプレー、というものがあります。
サインを出して行う例としては、ランナー1.3塁で、わざと1塁走者が遅れてスタートを切り、余裕で2塁で盗塁を刺せる、と見せかけて実は3塁走者がホームスチールを狙う、といういわばサインで行う騙しの例とか、いろいろありますが、選手のアドリブ?で繰り出されるトリックプレーの数々もあります。
さて、トリックプレーといえば未だに名前の上がる市川和正のポジションは捕手で、愛知県立国府高等学校から東海大学を経て、1980年ドラフト4位で横浜大洋ホエールズ入団。ちなみに、原辰徳は東海大学時代の同級生です。
背番号は 33 。以後、1993年まで在籍。一軍出場は1981,1983-1992年の実働11年で通算459試合出場、898打数214安打、通算打率.238。捕手としては、当初は若菜嘉晴の陰に隠れ、のちには谷繁元信の入団や秋元宏作の移籍加入もあり、正捕手であったのは1988,1989年の2年間でしょうか。記録だけでいえばとても地味です。
そんな市川ですが、なにせ市川といえば「東の市川、西の達川(広島)」と、並び称されるほどの名手?で、「打席で当たっていない投球に当たったふりをして死球で出塁」「ハーフスイングをごまかして振っていないふりをする」などで有名です。
前者については、「お前当たってないだろ!」と抗議に出てきた星野仙一中日監督相手に、当たったとされる場所をつねって腫らした、との逸話が、後者については、スイングの途中からなぜか体ごと一回転してスイングに見せない(結果、とても打者の動きに見えないため「忍者打法」と呼ばれました)、などの動きが、往年の「プロ野球ニュース」における、珍プレー・好プレーで取り上げられる常連でした。なお、これらの動きにはアドリブもあったでしょうが、どうもイメージトレーニングにも励んでいたようです。
以上から「球界の詐欺師」というとんでもない異名をとっています。
引退後は生命保険会社の営業マンを勤めているそうですが、引退後出演したTV番組で現役時代のプレーを紹介された際に現役時代の異名も紹介され、司会者から「営業マンが詐欺師といわれて大丈夫なんですか!?」との冷静なツッコミを食らっています。
- #32 益子京右(横浜DeNAベイスターズ)
- 高城が背負っていた32番を同じ高卒捕手として引き継いだ。
甲斐キャノンと同程度の強肩を持っていると言われていて、「強肩強打のすごい奴」という応援歌を引き継ぐ日も近いのではないかと期待しています。
青藍泰斗高校では毎朝5時からグラウンドに出て自主練していた努力の人。そしてその朝練に毎日付き合ってくれていた宇賀神監督を師と仰いでいて、二人のやり取りはおじいちゃんとお孫さんの会話のようでほほえましいです。
「益子を甲子園でお披露目するために甲子園に行きたい」とニコニコしながら話すおじいちゃん監督と、「監督への恩返しのために努力してドラフト指名を受けたい」と真剣な顔で答える教え子。
甲子園には行けなかったものの、益子がドラフト指名を受けるのを見守り、宇賀神監督は野球部の監督を今年勇退しました。
宇賀神監督の最後の教え子として、横浜スタジアムで強肩を披露して師匠に恩返ししてほしいです。
- #31 菅野詩朗(文化放送)
- どうも、仕事やAG活動のお供がradikoプレミアムな中の人です。
テレビやラジオなどのスポーツ中継の実況アナウンサーも個性があり様々である。冷静に状況を伝える実況、スポーツが好き過ぎて持ち前の知識を披瀝し過ぎる実況、…などなど、スポーツ中継をよくご覧の皆様であれば、それぞれのタイプのアナウンサーに対して
「あ、この人だ」
と真っ先に思いつく方もおられるのではないかと思う。
さて今日とりあげるのは菅野詩朗アナ。文化放送で長年ラジオのスポーツ実況を担当し、定年退職後はフリーアナウンサーとしてCSやインターネット中継でも実況を担当している。
文化放送のスポーツ実況には、特定チームへの肩入れが強い傾向や、選手に二つ名をつけるなどして饒舌になる傾向がある(全アナウンサー、全番組に当てはまるわけではないが)。
文化放送は平日のナイターシーズンは「ライオンズナイター」で西武戦を中継し、かつては西武贔屓が強い番組となっていた(現在は以前ほど西武贔屓は強くなく、パリーグ箱推しの傾向もあり)。また、ラジオ単営局ゆえ言葉数が多くなる傾向はある(テレビ・ラジオ両方でスポーツ実況を行う機会の多いTBSラジオには、ラジオ向けの言葉数多め実況と、テレビ向けの映像表現に任せて言葉数を抑える実況の両方ができるアナウンサーがいる模様)が、そこに毒気が強めの過激な表現をねじ込んだり、映像で伝わらない多彩な表現をこれでもかと詰め込んだりなどするアナウンサーもいる(戸谷真人アナ、斉藤一美アナなど)。なお、戸谷アナはかつて大相撲のラジオ中継で実況を担当していたが、この実況を参考にプロレス実況のスタイルを確立したのが当時テレビ朝日の古舘伊知郎アナである。プロレスラー以外にも、フリー転向後にフジテレビで担当したF1中継でのレーサーなどに二つ名を付けるスタイルは戸谷アナの影響も大きいと考えられる(余談だが、このような二つ名の付け方は近年のプロレス・格闘技ファンの影響を受けたアイドル文化にも流入しているように中の人は思うのだがどうだろう)。
そんな中で菅野アナをとりあげた理由は、このような背景に加えて 実況でテンションが上がるとアナウンス内容が崩壊し迷実況と化す 点にある。たとえばF1やサッカーの中継で絶叫の末日本語が崩壊することで有名な鈴木敏弘アナ(テレビ静岡)がいるが、鈴木アナは単語レベルで崩壊して迷実況化する(例:アーバイン3番手→アーバンテサンバイン)のに対し、菅野アナは目の前の状況以外の場面が混線するような形で迷実況が発生する傾向がある。
例を挙げると…
西宮球場の阪急vs西武戦で、阪急の岩本好広が一塁に出てヘルメットをキャップに替えた(当時は替える選手が多かった)後に牽制球を側頭部に受け担架で退場する場面にて
「岩本選手、今、ヘルメットで運ばれて行きます」
ベンチリポーター担当中に放送席の中田秀作アナを呼び出す際に
「菅野さん!菅野さん!」
(と、放送席にいない自分自身を呼び出し「菅野さんはあなたでしょう!」と中田アナにつっこまれる)
箱根駅伝(文化放送は箱根を含め大学駅伝の中継を長年放送している)の実況で
「(襷をつないできた最後のランナーが)今ホームイン!」
極め付きは1988年7月 31 日のヤクルトvs中日戦(神宮球場)、2回裏に長嶋一茂がプロ入り2本目となるソロホームランを放ち 3 対 1 とリードを広げた場面でのこの実況。
「長嶋一茂同点ホームラン!3対1!1点差です!」
この試合、1回表に1点を先制されたヤクルトはその裏、小川淳司の同点ソロ、池山隆寛の逆転ソロで2対1に。1対1で同点→2対1で1点差→3対1と追加点で突き放す展開となったため、菅野アナの迷実況発生パターンからするとこれらの場面が混線して出てきてしまった台詞と推測される(試合は延長までもつれ、11回に勝ち越した中日が6対5で勝利)。なお、本人のインタビューでは
「3対3、逆テーン。2点リードです!」
と喋ったと答えている( https://archive.fo/kp8JE )が、この場面を誤って思い出した可能性が高い(※)。
このような例は枚挙に暇がなく、文化放送には菅野アナの迷実況だけを収めたCDが所蔵されている模様。そして元同僚であり、菅野アナがマイクネームを名付けた野村邦丸アナ、そして同じく元同僚で平日帯番組を長年担当してきた吉田照美アナの番組などで迷実況エピソードが開陳されることがある。
文化放送退社後フリーアナウンサーとしてテレビ中継の実況も担当する機会が増えた菅野アナだが、ラジオ時代の実況スタイルが色濃く残る贔屓あり、言葉数多め、絶叫多めの実況には拒絶反応を示す視聴者も多い模様。特に真面目に試合を見たい視聴者層が多そうなCS中継とは相性がよろしくなさそうな気も。ネタとして消化できる程度には落ち着きが欲しいのでは、とも思わんでもない中の人による本日のカウントダウンでした。
(※)1988年7月31日のラジオ欄を確認すると、文化放送は同日の広島vs巨人(広島市民球場)とヤクルトvs中日戦の2元中継を放送していた模様。ヤクルト時代の長嶋のホームランで3対1になる可能性がある試合としては、これ以外には1989年9月25日(オリックスの門田博光が本塁打を打ったが、ベンチでのブーマー・ウェルズとのハイタッチの際に右肩を亜脱臼した日)のヤクルトvs巨人(神宮球場)で1対3と逆にビハインドで成り立つ可能性がある例もある(文化放送は近鉄vs西武(藤井寺)との2元中継を放送)。ただスコアボードを見る限りでは2対3であった可能性もあるため、迷実況発生パターンを考えると1988年7月31日のヤクルトvs中日の実況の可能性が高いと考えられる。また、1989年10月4日のヤクルトvs阪神(神宮球場)では長嶋のホームランで3対3になった可能性があるが、文化放送でこの試合の中継が組まれておらず、こちらは菅野アナの記憶違いと思われる。 長嶋の現役通算18本のホームランの詳細情報は https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1451477037/ 、ラジオ欄やスコアの情報は朝日新聞縮刷版で確認した。
- #30 上田利治(阪急ブレーブス)
- 「30=監督の背番号」の文化
少年野球の一部や東京六大学野球では、現在でも 30 は監督が付ける背番号として定められている。日本プロ野球でも戦時中〜2リーグ分立前までは、明文化されたルールがあったわけではないが選手兼任監督を除き「30=監督の背番号」となっていた時代があった。2リーグ分立後はより大きな数字の背番号を背負う監督が増えたが、30を着け続ける監督もいた。近年は監督専任であっても、現役時代の背番号をそのまま背負う監督も増えてきている(金本知憲、高橋由伸、そして選手兼任の時期もあったが谷繁元信がその例)。
現役時代
上田は高校時代から捕手。弁護士志望で、関大には一般入試で合格したが野球部に誘われ入部し活躍。プロとしてはやっていく自信がなかったため、「東洋工業(現:マツダ)に社員として籍を置き、出向の形で3〜4年程度」という条件で1959年広島に入団。プロ入り1年目のキャンプにも六法全書を持ち込んでいたという。しかし肩の故障もあり1961年限りで現役を引退した。実働3年、現役通算121試合出場、257打数56安打2本塁打、打率.218という成績であった。
指導者として(広島〜阪急第1期)
引退後は当初の約束通り東洋工業に戻り社業に就くつもりであったが、東洋工業の社長でもあった松田恒次球団社長の意向で1962年に25歳の若さで二軍コーチに就任。翌年から一軍コーチを務めたが、1969年に根本陸夫監督との意見の対立があり退団。1970年は野球評論家として活動していたが、自費でアメリカに渡りMLBの視察に行っていた。
1970年オフ、上田が尊敬する元南海監督の鶴岡一人が近鉄の監督に就任する話が持ち上がり、鶴岡本人から上田にコーチ就任の要請を受ける。「近鉄・鶴岡監督」の話は立ち消えになり近鉄のコーチ就任の話もなかったことにされたが、間もなく元同僚の山内一弘から西本幸雄監督に推薦され、阪急のコーチとして招聘された。西本監督が辞任した1974年に阪急の監督に就任。NPBでもこの頃には70番台、80番台の大きな背番号を着ける監督が主流になりつつあった(1975年に就任した巨人・長嶋茂雄監督はNPBでは初の90番台となる90を着けた。90年代の第2次政権時は33→3と小さくなっていったが)が、上田監督は背番号 30 を背負い、監督を退任していた1979年・1980年を除き、球団がオリックスに買収された後も1990年まで監督として30を背負い続けた。
西本の後ろ盾を見込んで阪急の監督になった上田だが、その西本は近鉄の監督に就任し後ろ盾どころかライバルとして闘う相手となってしまった。1年目から前期優勝は遂げたもののプレーオフでロッテに敗れ2位。2年目の1975年にリーグ優勝し、この年からチームカラーに赤を採用し、元同僚・古葉竹識監督が率い球団初のリーグ優勝を果たした古巣広島との日本シリーズを制し、球団創立40年目の阪急を初の日本一に導いた。その後も1976年・1977年と3年連続で阪急を日本一にした。
1978年もリーグ優勝を果たし、ヤクルトとの日本シリーズに臨んだ。しかし第7戦で大杉勝男が放ったレフトポール際のホームランをファウルだとして上田監督は猛抗議。抗議は1時間19分にも及んだ。抗議は受け入れられず試合も敗れ、この混乱の責任をとり上田は監督を辞任した。
「常勝軍団」でないチームの指揮(阪急第2期〜日本ハム)
上田の後任でコーチから阪急監督に就任した梶本隆夫は1980年に5位と低迷した責任をとり辞任(再び阪急コーチに戻る)し、1981年から上田が再び指揮をとることになった。阪急の監督就任前には西武からも広島時代の同僚・根本の後任として長嶋茂雄、王貞治とともに監督の打診があったが実現せず。1970年代の第1期監督時代と異なり、選手の世代交代を進めながら勝てるチームを作ることが求められた第2期監督時代だったが、第2期の10年間で優勝1回、Aクラス7回の成績を残す。
1988年に阪急はオリックスに球団を売却し、阪急の黄金期を支えてきた山田久志が引退。阪急最後の試合での挨拶で「去る山田、そして残る福本」と言いたかったところを「去る山田、そして福本」と言ってしまい、当時まだ引退の意思がなかったとされる福本豊も引退することになった。オリックスの監督も1990年まで続けたが、翌年からオリックスの本拠地は神戸に移り、チーム名も「ブルーウェーブ」となった。
1992年シーズン中にダイエーの監督就任を打診されていたが、球団内の事情で実現せず根本を西武から招聘することになった。その後1995年から日本ハムの監督に。背番号は88。1996年、1998年は優勝争いに絡むもののいずれも2位に終わる。1999年に5位に終わると監督を退任。2003年野球殿堂入り。2017年没。
現役時代は実績がほとんどなかったが…
上田も、広島時代の同僚であった根本も現役時代には目立った実績がなかったが、指導者として結果を残してきた。NPBでは現役時代に目立った実績のない選手が監督になるケースは少なく、近年ではMLBでの選手経験がなかったトレイ・ヒルマン(日本ハム)の例がある程度だった。しかし2019年には実働6年、現役通算122試合出場、172打数37安打1本塁打、打率.215と、上田の通算安打数・本塁打数・打率を下回る平石洋介が楽天の監督に就任した。現役時代の実績と指導者としての実績は本来別のはずであり、プロ以外でも野球指導のあり方について問題提起され始めている。新たな指導者像、新たな選手育成の形が生まれることを期待したい。
参考文献
小野俊哉「プロ野球は「背番号」で見よ!」光文社新書、2013。
#29~#20
- #29 パット・ベンディット(サンフランシスコ・ジャイアンツ)
- スイッチピッチャー
左右両方の打席に立てる打者であるスイッチヒッターは少ないながらも存在するが、左右両方の手からボールを投げられるスイッチピッチャーは非常に珍しい。20世紀以降のMLBではわずかに2名、NPBでも両投げで選手登録された例としては投手では近田豊年(南海・ダイエー→阪神)のみ、野手では小久保浩樹(西武、元ダイエー→巨人→ソフトバンクの小久保裕紀とは同姓同名の別人)のみである。近田は一軍登板の経験はあるものの左投げでの登板のみで、試合では両手投げを披露することはなかった。小久保は一軍出場しないまま引退している。アマチュアでは、現在東京六大学野球の立教大学硬式野球部に在籍する赤塚瑞樹投手が両投げによる公式戦登板に挑戦しようとしている例がある( https://www.nikkansports.com/baseball/news/201902200000993.html )。
有名選手の例で一時的に利き手でないほうで投球に取り組む例もある。ダルビッシュ有(カブス)は右投げだが、左右の身体のバランスをとるために練習では左で投げることもあり、左でも120km/h程度の球速で投げ、変化球も投げることができるという。ただしあくまで練習で投げるのみであり、実戦で披露することはない。また、松中信彦(ダイエー・ソフトバンク)は左投げだが、高校時代に左肩を負傷したため、一時右投げで試合に出ていたことがある。しかし手術後社会人時代には左肩が完治し、左投げに戻している。
ほかにも、日常生活は右利きだが左投げの投手になった例(江夏豊、今中慎二など)や、逆に日常生活は左利きだが右投げの投手になった例(岩隈久志など)などもあり、場面により利き手が違う人も世の中には多い(中の人も日常生活は主に右手を使うが、野球は左手を使う。なお実戦経験はほぼなくただの運動神経悪い芸人の模様)。
「本格的」スイッチピッチャーの誕生
20世紀以降のMLBで両手投げでプレーしたことがある選手は、グレッグ・ハリスと、今日とりあげるパット・ベンディットの2名のみ。ただし、ハリスは球団首脳陣の意向もあり長らく右投げのみでプレーしており、1試合で両手投げを披露したのは1995年の最終登板の1つ前の試合のみである。ベンディットは幼少時から親の意向もあって「両利き」になれるよう生活し、野球選手のキャリアを歩み始めた頃から両手投げでプレーを続けている。
2008年のMLBドラフトでヤンキースに指名されプロ入り。デビュー戦でスイッチヒッターと対戦するがお互いがどちらの腕で投げ、どちらの打席で打つかを迷うこと5分。結局この時は打者が右打席に入りベンディットが右投げで三振に打ち取った。スイッチピッチャーvsスイッチヒッターに関するルールが当時は定められていなかったが、これを機に先に投手が左右どちらから投げるかを示さなければならないことが明文化され、「パット・ベンディット・ルール」と呼ばれるようになった(日本の公式野球規則も2010年に追随)。
2013年にはWBCイタリア代表に選出されたが、右肩を故障中で左投げのみで登板した。
2014年オフにアスレチックスとマイナー契約。翌年メジャー契約を結びメジャーデビューした。背番号は 29 。
デビュー後ほどなく右肩の張りで故障者リスト入り。両手投げでこそ価値があると首脳陣に判断され、左投げだけで出場を続ける形にはならなかった(今年は右肘の故障で打者に専念する大谷翔平とは事情が違うようで…)。復帰後にメジャー初勝利。
2015年オフにブルージェイズへ移籍したが結果を残せず。シーズン途中にマリナーズへトレード移籍したがここでも打ち込まれマイナー行きとなった。2017年はフィリーズへトレードされたが3Aでの投球が続いた。2018年はドジャースに移籍し、シーズン途中に2年ぶりにメジャーに昇格し15試合にリリーフ登板。0勝0敗、防御率2.57という結果だった。2018年オフにジャイアンツとメジャー契約を結ぶ。
右打者vs右投げの被打率は.259だが、左打者vs左投げになると.190と左打者をよく抑える傾向がある( https://www.sanspo.com/baseball/news/20181222/mlb18122214130008-n1.html )。
スイッチピッチャーの「6本指」グラブ
野球のグラブには右投げ用と左投げ用があるが、スイッチピッチャーの場合は2つのグラブを取り換えて使用するのも大変なので、1つのグラブで対応できるよう、左右対称で左親指・右親指が入る分を拡張した「6本指」のグラブが開発された。この6本指グラブを最初に使用したのは前出の近田で、日本のスポーツ用品メーカー・ミズノに特注したものである。前出のハリスも両手投げを披露する際にミズノの6本指グラブを使用した。ベンディットは幼少期から両手投げに取り組んでおり、7歳の頃にこのグラブの存在を知り、父が米国からファックスでミズノに注文したそうである。メジャーで活躍する現在も、ミズノの6本指グラブを愛用している。
- #28 星野伸之(阪神タイガース)
- 北海道旭川市出身。1983年ドラフト5位で阪急に入団。背番号は 28 。
色白で体が細いというおよそプロ野球選手らしくない体型で、入団会見の前日まで発熱で寝込んでいるなどして「本当にプロでやっていけるのか?」と心配されたそうである。肘や手首、腕の使い方が柔らかいフォームからカーブを投げる投法を習得し、高校時代から奪三振を重ねていた。
ストレートの球速は120km/h台後半、カーブの球速は100km/h未満と、数字的にはバッティングセンターでも見慣れた速さの球速でプロの打者を抑え込んできた。ストレートは初速と終速の差が小さく、回転数が多く打者の手元で伸びるため打者の体感的には150km/h台のストレートに感じられたという。カーブは落差が大きく、また落ちるスピードも速いため打者のフォームをよく崩していた。1990年9月20日のオリックス-日本ハム戦(東京ドーム)では田中幸雄に投げた、左打席方向にすっぽ抜けたカーブを後逸させないようにしようとしたが、捕手の中嶋聡がミットをしていない右手で捕球してしまい、中嶋はひたすら星野に平謝りだったという。星野は機嫌を悪くしたという話もあったが怒ってはおらず、投手コーチを務めた際には若手投手にこの「珍プレー」の動画を見せて笑いをとるなどしていた模様。中嶋はかつてスピードガンで球速を測ったところ147km/hを出したことがあり、星野の投球より中嶋の返球の方が速かったとも。
基本的にストレート、カーブ、フォークの3つの球種の組み合わせとコントロールで勝負していた(シュートも習得したが実戦で痛打されたためすぐ封印したとのこと)が、これ以外にフォークと見せかけた110km/h台の遅いストレートも投げ、特にボール先行時にこれを見逃させる形でカウントを稼ぐ投球も見せた。星野本人はこれを「星野スペシャル」と著書で呼んでおり、現役時代に対戦を重ねた初芝清(元ロッテ)もこの遅いストレートを「魔球」と称した。
入団当初の1984年に阪急としては最後のリーグ優勝を遂げたが一軍登板はなかった。プロ入り2年目に一軍初登板し初勝利も挙げる。プロ入り3年目のキャンプから球種が読まれにくいフォームと、新たな変化球としてフォークの習得に取り組む。その結果1987年から先発で活躍。1997年まで11年連続で2桁勝利を達成。勝利数だけでなく投球回も多く、多くのイニングを消化して1990年代の強いオリックスを支えた。しかし調子が悪い試合では滅多打ちを食らうため、球速の遅さも相まって「負けが多い投手」のイメージも付いてしまう(中の人もそうでした)。しかし1989年・1996年はリーグ最高勝率を記録している上、11年連続2桁勝利の間に勝率5割を切ったシーズンは1987年・1993年の2年のみと、イニングを稼げる貴重な先発投手であった。
2000年にFA権を行使し阪神に移籍。阪神では背番号34。2000年、2001年には開幕投手を務め、2001年にはプロ17人目の2000奪三振を達成。現役通算2041奪三振は歴代21位。球速はなくても三振が奪える投手であった。しかし頻脈を患いプロで投げ続けるには限界を感じ2002年で現役引退を決断。現役通算176勝140敗。引退後は阪神・オリックスの投手コーチを歴任し現在は野球評論家。
ほか、個人的な星野のイメージとしては「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ)のフリートークで浜田雅功が星野との家族ぐるみの付き合いのエピソードをよく話していたことだったりする中の人による本日のカウントダウンでした。
参考文献
星野伸之「真っ向勝負のスローカーブ」新潮新書、2003。
初芝清・中沢伸二・当銀秀崇「『星野伸之のスローカーブ』を語ろう」週刊現代、2016年4月23日号。
- #27 門田博光(南海ホークス)
- 山口県小野田市に生まれ、のちに父親の仕事の関係で奈良に転居する。
天理高校で四番打者となり、1965年夏の甲子園に出場するも1回戦敗退。
卒業後は社会人野球のクラレ岡山に進む。1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否し、翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
背番号 27 をつける。
その後の活躍は有名であり、40代になってからも活躍したことから「不惑の大砲」の異名をとった。
ホームランへのこだわりは並々ならぬものがあり、有名な話として、門田は次のように語っている。
「ろくでもない解説者が、あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど、と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らんやつが言うこと。確かに思い切って振ってるうちは30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」
「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通のやつは出来んから、おれは『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」
フルスイングへのこだわり。最近どこかで聞いたことがあるような気がしないでもない。なお、門田は脱臼癖があることでも有名であり、1984年4月14日の日本ハム戦でホームランを打った際のハイタッチで右肩を脱臼。オリックス移籍1年目の1989年9月25日、古巣の対ダイエー戦でも、3回裏に本塁打を打ち、ホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に、再び右腕を脱臼している。門田は慣れたものだったが、ブーマーはひどく落ち込んだという。
なお、門田は南海在籍中に3回も背番号を変更しているが、入団後しばらくつけていた背番号が27である。
- #26 26度
- ホームランを打つ為の理想的な打球角度の一つ。
メジャーリーグでは、2015年に全30球団の本拠地にスタットキャスト(注1)という技術が導入され、選手やボールの動きを高性能カメラと分析システムによって数値化して評価出来るようになった。
打球速度と打球角度のデータを集めた結果、高確率でヒット・ホームランになる組み合わせが見つかり、MLB公式アナリストはこれを「バレルゾーン」と名付けた。158キロ(初速)以上で角度が30度前後の打球は8割以上がヒット、その多くがホームランとなる事が現在分かっている。
アメリカンリーグ西地区のヒューストン・アストロズは(速度を求めつつ)打球に角度をつける意識付けにより強打のチームをつくりあげ、2017年にはワールドシリーズを制した。また、アストロズはカーブはホームランを打たれくいと分析しており、カーブの得意球種とする投手を集めていた。相手チームに打球角度をつけさせない工夫もしていた。2018年の大谷翔平選手はバレルゾーンに打球が飛んだ割合が16%でアメリカンリーグ6位、メジャー全体7位であった。
(注1)スタットキャストにより多くのデータが得られている。投球ではリリースポイント、球速、球の回転数・回転軸。打撃では、打球の角度・距離・方向。走塁では、リード距離、スタート、加速と最高速度。守備では、打球を追う速度・走路、送球速度。
- #25 高井保弘/代打(阪急ブレーブス)
- 「代打」は、この場面で得点が欲しい、というところで起用される、これまたスーパーサブ、でしょうか。あるいは、走者の有無に関係なく、バッティングのあまり期待できない、投手を交代させるときに投手の打順で代打が送られたりします。
必ずランナーを進めてくれという意味で代打で起用されて、誰が見ても見え見えの送りバントをあっさりと決めていた川相昌弘(巨人・中日)のような職人もいれば、古田敦也(ヤクルト)はプレーイングマネージャーとして「代打オレ」の名言を残しています。
「川藤出さんかい」のCMで有名な川藤幸三(阪神)や、漫画の”あぶさん”こと景浦安武は、「代打男」なんていわれたりしてましたね。
さて、そんな「代打男」の元祖といわれるのが高井保弘(阪急)。
愛媛県立今治西高校から名古屋日産モーターを経て、1964年に阪急に入団。背番号は44→35→ 25 、と変わっています。
バットコントロールがうまく、長打力のある打者でしたが、守備に難があったため、指名打者制度が導入されるまでは代打としての出場がほとんどですが、1982年までプロ生活を送り、1135試合出場、665安打、本塁打130本、打点446の記録を残し、指名打者として起用された1977年から1979年にかけて規定打席を記録し、特に1978年、1979年と打率3割を記録しています。
本職の?代打としては通算代打本塁打27本という世界記録を持っています。
この高井、非常に投手のクセを見抜くのがうまく、ちょっとした動きで球種がわかった上に、それらのクセをメモしておいて活用したそうです。
また、ノムさん(野村克也)が南海で現役のころ、高井に向かってささやいて集中力を乱そうとしたのですが、それに対してヨミで勝負しましょうや、と持ちかけ、球種を読んだ上でその打席でホームランを打った、という話があります。
高井がクセを見抜いて活用する対象は、シーズン中対戦するパシフィックリーグの投手にとどまらず、セントラルリーグの投手にも及んでいました。
ノムさんがオールスターゲームでパシフィックリーグの監督を務めた1974年には、監督推薦で生涯唯一のオールスターに選出され、シーズン中対戦のない、ヤクルトの松岡弘からオールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を放っていますが、これも変化球を投げる際のクセをオープン戦で見抜いていたそうです。
先にも述べたように高井は長打力のある打者ですが、意外なことに、代打スクイズ、なんてものまで決めています。
各球団の代打の切り札と投手との駆け引きを見る、というのも、なかなか面白いですよ。
- #24 田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)
- 楽天時代の2013年、開幕から24連勝という記録を残した。
野村元監督が残した「神様、仏様、田中様」という言葉でしか言い表せない凄さである。
シーズンを通して見てた感想としては「勝つ」というより「負けない」という表現のほうがしっくりくる見えない何かの力が働いてたと思う。
楽天から先に海を渡ったI隈投手が楽天に帰ってこなかったので、田中投手には日本に戻ってくる時は楽天を選んでほしいと今から切に願っている所存。
- #23 村松有人(福岡ダイエーホークス→オリックスブルーウェーブ→オリックスバファローズ→福岡ソフトバンクホークス)
- 金沢出身、星稜高校に進学し高校2年、高校3年には甲子園にも出場している。2学年下には松井秀喜がいた。
1990年ドラフト6位で福岡ダイエーホークスに入団。入団後からはその俊足を生かし、当初は代走・守備要員であったが打率が3割台となり積極走塁が決まりだすと1番打者に定着。背番号 23 の村松・背番号8の浜名との1・2番コンビが定着し、1996年には58盗塁で盗塁王に輝く。しかし、たたきつけるバッティングが当時の首脳陣の考えとあわず、極度の打撃不振に陥ってレギュラーの座を外れることになった。
2002年頃から打撃フォーム改造したことにより復活した。
2004年からは足に負担をかけない天然芝でのプレーを希望したことからオリックスブルーウェーブに移籍、2005年からは分配ドラフトによりオリックスバファローズに所属する。以後もレギュラーとして活躍し、2008年に大村直之との交換トレードで古巣復帰となった。
2010年に惜しまれつつ引退。
以後はスカウトに転身し、2014年からはコーチとなっている。現役時代の盗塁はヘッドスライディングが特徴的で、本人もこだわりを持っていたようだが、オリックス移籍以降は怪我をしたためヘッドスライディングは封印した。1995年には当時親会社のダイエーが経営していたローソンのCMにともさかりえ・矢田亜希子と共演し出演している。
2017年のシーズンは1軍走塁コーチになっていた。
その年の日本シリーズ、横浜DeNAベイスターズとの死闘を制した第6戦の延長サヨナラ優勝の影には村松コーチの活躍があった。サヨナラヒットを打った川島の打球はそれなりに強く、そして、外野は極端なほどの前進守備を敷いていた。普通なら、三塁ストップ、突っ込めば、タイミング的にはアウトの確率の方が高かっただろう。その状況で、三塁ベースコーチの村松はなぜ中村晃に腕を回して本塁突入を指示したのか。それにはちゃんと根拠があり、「打球が正面だったら止めていましたけど、ちょっと横にズレていたので」。つまり、川島の打球が右翼正面ではなく、やや右中間寄りに飛んだこと。打球を処理した右翼・梶谷がわずかに中堅方向に体を向けて捕球することになることを考えて回したということだった。右翼・梶谷がシートノックに入っていなかった点、イニング間の梶谷のキャッチボールを見て、どこかしらに不安を抱え、100パーセントの送球が出来ないと読んで本塁に突っ込ませていたというから、走塁のプロフェッショナルの慧眼、恐るべしである。
大阪アノマリーの終わった夜、祝勝会兼観戦会で歓喜の声と悲鳴がこだましたもう一つのやきうイベントの裏にはこんなドラマがあったのだった。
- #22 田淵幸一(西武ライオンズ)
- 野球に興味を持ったきっかけ、というのが実は
「がんばれタブチくん」
なんです。
案外多いパターンと踏んでますが、そうでもないですか?
あれはまだ幼き少女だった頃、初恋の人が
「いしいひさいちっておもしろい」
と言っているのを聞き読んでみたらば、
そこに繰り広げられていたのは、野ツボのような球場で捕手を勤めるタブチくん(背番号 22 )とゆかいな仲間たちの日常。
間違いなく名作だと思うんですよ。
映画とかは置いといて、漫画は間違いなく。
原点がそこだから、多分今でも西武とヤクルトが好きなんだと思う。
- #21
- 神宮F席にて。
「こんにちは!二十歳の女子大生です!」
初めて入ったチャットの世界で、私は確かにそう名乗った。ヤクルト球団のホームページに、オフィシャルのチャット機能があるのを、たまたま大学の授業の間に見つけたのだ。
ウケがいいかな、と、当時の自分なりに考えたのだろう。そして、それはあて通りに、当時30代のオジ様たちの興味を引き、このコミュニティにすぐに馴染み、そしてどハマりした。
「試験勉強しなきゃ」と大学生アピールをして初日は退出したものの、学校や部室のパソコンを占拠してチャットし続け、ひどい日には徹夜チャットで朝を迎えたことすらあった。
同時に、何人かの同世代の友達もできた。
一番仲が良かったのは、北海道在住の同い年女子。当時は短大生で、就職活動片手にメガホンを振っていた。恋の話をしたり、お互いの大事なものから不要な近所の安売り情報チラシからなんでも送り合ったりしては、お互いアホだよねーという遠距離電話。携帯電話はちょうど普及し始めた頃でお互い持っておらず、彼女は自宅の電話を占拠しては、家族に怒られていた。
そして、彼女の就職が決まった頃、果たして神宮球場で出会った。遠く何年も離れた恋人に会うような感覚で、まだシュッとしていた頃の扇風機おじさん真中や当時セーブ王を大魔神佐々木と争っていた高津がクラブハウスから出てくる写真を撮ってはキャーキャーし、F席周辺の年間チケットを持ったオジサマたちと一緒に、当時ヤクルトで 21 を背負っていた吉井の終わらない9回表にあと一球コールを送っては試合を大いに楽しんだ。
彼女が北海道に戻ってからも、私は片道2時間以上かけて神宮へ通ったりもしたし、道中に雨雲と合流しては神宮にすでにいる仲間から「こっち来んな!」と言われたりもした。帰りのバスの都合で、最後まで試合が見れることは少なかったように思う。
自分が就職してからは半分以下の時間で神宮にたどり着けるようになったのだが逆にそれが災いし、また彼女も働き始めたことでなかなか野球に時間をさけなくなっていたこともあり、そして神宮いくこともチャット仲間と連絡を取ることも極端に減っていた。
球団のチャットはなくなり、いつしか連絡を取る手段すらなくなった、と思っていた。
LINEのグループチャット通知が来た。
「神宮F席にて」
あの時の仲間の1人が個別に連絡をとり、F席にいた当時のメンバーを、もう一度繋げてくれた。そしてそこには、もちろん彼女もいた。
確実に、彼女と、もう一度繋がった瞬間だった。
ドキドキしながら、個別のメッセージを送る。
なかなか既読にならないモヤモヤにいつかの甘い気持ちを思い出し、そしてそれが既読になった瞬間には心臓が口から飛び出そうだった。
「うお」「ご無沙汰」
変わらないそっけない返し。あの頃と、何ら変わっていない。
「7月にさ、ゲームの世界大会があって、札幌行くんだわ。もし時間あったら会えない?」
札幌アノマリーをEnightenedの勝利で終えた次の日、私はある駅の改札前にいた。
ミッションデー真っ最中で、あちこちからビールや美味しいものの画像が流れてくるが、そちらの世界とは一度切り離し、彼女が出てくるであろう改札を、じっと見つめる。
人の波がエスカレーターから改札に押し寄せる。
なかなか彼女は現れない。
場所を間違えたのだろうか。
時間が違っただろうか。
何度も彼女とのLINEの履歴を確認しては、改札の奥に再度目を向ける。
「おひさー」
あの頃よりちょっと白髪の増えた、しかし全く変わらない笑顔で、彼女が目の前に現れた。
21 年目の邂逅だった。
- #20 若狭敬一(CBCテレビ)
- 名古屋にあるCBCテレビのアナウンサー・若狭敬一。地方局のアナウンサーゆえ全国ネットのテレビ番組ではめったに見かけない(たまにTBS系列のニュース番組で東海地方からの中継や、CBC制作の全国ネットの番組などに出演する程度)が、昨年あるニュースで東海地方の中日ファン以外の野球ファンにも名前が知れ渡ることになる。
1998年CBCに入社し昨年でアナウンサー歴 20 年の節目を迎えた。名古屋大学在学中は準硬式野球部に在籍し、現在も他局のアナウンサーやプロ野球OBらも交えて草野球をプレーする。スポーツ、とりわけ野球に造詣が深いためかスポーツ番組の担当が多く(前述のように報道の仕事も担当する場合あり)、取材や各種データの調査で得た情報は本人の口から語られるだけでなく、著書「サンドラのドラゴンズ論」(中日新聞社)や、コラムを寄稿している文藝春秋のWebサイト「文春野球」でも読むことができる( http://bunshun.jp/search/author/%E8%8B%A5%E7%8B%AD%20%E6%95%AC%E4%B8%80 )。しかし、一言多いどころか十言くらい多いタイプで、「今日の選手や監督の談話を3分程度で話してください」と言われると10分近く比較的些末な情報からとりあげて話し続けた末に「え、まだ大事な話してませんよ?あと5分くらい話せるかと思ったんですが…」とすっとぼけるなどしており、この過剰な喋りっぷりで「おしゃべりメガネ」とあだ名される。プロ野球中継では豊富なスポーツの知識・経験に裏付けられた実況にも定評はあるが、同い年の川上憲伸と実況・解説のコンビを組むと多少雑談が多くなる(いわゆる「居酒屋中継」化する)傾向がある。
若狭アナを一躍有名にした出来事といえばプロ野球ドラフト会議の「 疫病神 」ぶりである。若狭アナが中日が1位指名するであろう選手のところにドラフト当日に取材に行くと、その選手は中日に来ないというジンクスが続いている。その歴史をたどると…
2013年 松井裕樹の取材のため神奈川・桐光学園へ
→5球団競合の末楽天入り
2014年 山崎康晃の取材のため東京・亜大へ
→中日は指名を回避、2球団競合の末DeNA入り
2015年 高橋純平の取材のため岐阜・県岐阜商へ
→3球団競合の末ソフトバンク入り
2016年 今井達也の取材のため栃木・作新学院へ
→中日は指名を回避、単独指名された西武入り
2017年 中村奨成の取材のため広島・広陵へ
→2球団競合の末広島入り
と、5年連続で若狭アナによるドラフト指名選手の取材が空振りに終わった。
2018年は地元・岐阜県出身でドラフトの目玉であった根尾昂の取材のため大阪桐蔭に向かおうとした。しかし事前に上記の経緯をよく知る視聴者から「中日がくじを外すから若狭は取材に行くな」と激しい批判を受け、さらにある意味斜め上方向の取材力まで発揮することで定評のあるスポーツ報知の中日担当(当時)・田中昌宏記者(注1)が記事にし、Yahoo!のトップにとりあげられる事態に。そこで名古屋市守山区にある倶利加羅不動寺で滝行を行った上で、大阪桐蔭への取材には若狭アナの代わりに別のアナウンサー(柳沢彩美アナ)が取材に向かった。この甲斐あってか、無事根尾は与田剛監督がくじを引き当て中日に入団。おかげで根尾本人や与田監督には取材で対面する前から「滝行の人」として認識されていた。ドラフト会議前の若狭アナは自身のラジオ番組で「あなたに会いたい」、ドラフト後は「出会えてよかった」という内容のラブソングを立て続けに選曲してかけていたが、一部リスナーには気持ち悪がられた模様。
一方で中日がリーグ連覇を果たした2011年。8月には首位ヤクルトと10ゲーム差、順位も5位まで落ち込み優勝は絶望視されCBCの野球解説者が軒並み優勝は無理と断言する中、若狭アナは最後まで中日が優勝すると主張。この話を聞いた当時の落合博満監督はリーグ優勝のビールかけで「お前偉い!偉い!」と絶叫しながら若狭アナを熱く抱擁した。様々な残念な点も多いアナウンサーではあるがスポーツに対する造詣の深さゆえマスメディアの中でも目が離せない存在といえよう。
以上、大事な場面で地蔵のごとく黙ってしまうこともあれば十言くらい多く喋ってしまうこともあり、空気が読めなくて仕事その他でよく失敗してしまう中の人による本日のカウントダウンでした。
(注1)スポーツ報知の中日選手名鑑も一部で話題となった( https://www.tbsradio.jp/345480 など)が、これも田中記者の仕事。なお2019年より広島担当になった模様。広島関連の記事でもその取材力が期待される。
#19~#10
- #19 金子弌大/吉見一起(北海道日本ハムファイターズ/中日ドラゴンズ)
- 金子と吉見は社会人野球のトヨタ自動車硬式野球部で先輩後輩の関係にある(金子は2002年、吉見は2003年入社)。
そして金子は2004年ドラフト会議の自由獲得枠でオリックスに(近鉄との球団合併後初のドラフトの年でもある)、吉見は2005年ドラフト会議の自由獲得枠で中日にそれぞれ入団。2人ともプロ入り後は背番号 19 を着ける。プロ入り前に右肘を故障し、初登板に時間を要した点も共通している。社会人時代から吉見は先輩である金子に何度となく教えを乞うており、投球術はもとより金子が趣味とする風水の影響なども受けている。
金子は右肘故障が入団前後に判明したため、1年目はそのリハビリに大半を費やし一軍登板はなし。2年目の2006年の前半は中継ぎで、後半は先発で登板し活躍。
2008年には開幕投手を務め、1年間先発ローテーションを守り初の規定投球回到達。
2009年も先発で活躍していたが、加藤大輔が不調のため抑えに配置転換された。
2010年は前半不調だったが、7月から13連勝の大活躍で終わってみれば17勝で和田毅(ソフトバンク)とともに最多勝のタイトル獲得。
2011年・2012年は故障に苦しんだが、2013年は最多奪三振のタイトルを獲得し、沢村賞の全基準を満たす結果を残したが、この年24勝0敗の記録を残し翌年からMLBに活躍の場を移した田中将大(楽天)が沢村賞を獲得した。
2014年5月31日のオリックスvs巨人(京セラドーム大阪)戦で9回4四球1失策無安打に抑えたが、味方も得点できず9回裏に代打を送られ降板(この年のセ・パ交流戦は例年と異なりパ本拠地で指名打者制不採用、セ本拠地で指名打者制採用であったため)。延長戦に突入しノーヒットノーラン達成はならなかった上に、この試合は延長12回表に決勝本塁打を打たれオリックスが敗れている。この年は16勝5敗、防御率1.92で最多勝・最優秀防御率のタイトルと、前年逃した沢村賞を受賞した。シーズン中もMLB移籍を視野にスカウトが視察に訪れていたが、右肘の手術を行うため移籍を断念した。
2015年・2016年も故障に苦しんだが、2016年には現役通算100勝に到達。
2017年は12勝8敗、防御率3.47を記録し復調したが2018年は再び調子を落とす。オリックスは大幅減俸を呈示したが金子は拒否し自由契約を申し出て退団。自由契約公示の翌日に日本ハムと入団契約し移籍した。
2010年にはソフトバンクから同姓の金子圭輔が移籍してきたためスコアボードの名前が「金子千」となったが、2文字目・3文字目のスカスカ具合を気にしたのかスコアボードの名前を本名フルネームの「金子千尋」とする。
2012年に金子圭輔がソフトバンクに復帰し金子姓がオリックスに1人のみとなった後も、スコアボードの名前は本名フルネームのままであった。そして日本ハム移籍後に登録名を「金子弌大」に変更(名前の読みは「ちひろ」のまま)。改名は風水の先生のアドバイスによるものという。弌は領収書などに用いられる漢数字の「一」の大字(だいじ)のひとつ(壱、壹の仲間)で、「いち」と入力すれば漢字変換可能なことを金子本人もアピールしている( https://full-count.jp/2018/12/12/post265083/ )。
吉見も入団当初は右肘の手術明けだったためリハビリに専念しようという話もあったが、1年目の2006年からリリーフ中心で登板。プロ初先発・初勝利も経験した。
2008年にはプロ初完封を記録し、一時は中継ぎに回ることもあったが10勝を記録。
2009年はチェン・ウェイン、川井雄太らとともに先発で活躍し、16勝3敗で最多勝(館山昌平(ヤクルト)と同率)を受賞。また、4完封3無四球完投はリーグ最多。森繁和コーチからは「ストレートの力は7〜8割程度でいいからコントロールを重視し、長いイニングを投げることを意識するように」とアドバイスを受けた。この頃、ある試合で肘の違和感をごまかしながら投げていたところ、森コーチはもし吉見が故障離脱するとどれだけチームに悪影響が出るのかわかっているのか、と吉見を激しく怒鳴りつけた。ただ森コーチが本気で吉見に怒ったのはこの一件のみで、基本的に本人任せで練習させて結果の残せる選手と評しており、吉見も森コーチをこの件では怒られたことは印象に残っているとしながら「普段は面倒見のいいお父さんみたいな人」と語っている。
中日がリーグ優勝した2010年は12勝9敗、そして2011年は18勝3敗(勝率.857)、防御率1.65で最多勝、最高勝率、最優秀防御率のタイトルを獲得しリーグ連覇に貢献。この年退任した落合博満監督からも名指しでピッチングを絶賛された。
2012年は13勝4敗、リーグ最多の6完投2完封3無四球完投を記録したがこの年右肘を骨折。
2013年は開幕投手を務めたものの、2015年まで右肘の状態が思わしくなく手術を繰り返した。
2015年8月5日の中日vsDeNA戦(ナゴヤドーム)に先発したが右肘の痛みが再発。引退を決意していたが、この試合の3週間後に急逝した、試合の話を全くしなかったという吉見の父がひっそり保存していた自身の新聞記事などの記録を発見して、翻意し現役続行を決意した( https://number.bunshun.jp/articles/-/826371 )。
2016年は右肘の具合も考慮して100球前後の球数制限のもとで21試合に先発登板し6勝7敗、防御率3.08と復活した。2017年は3勝7敗防御率5.23と成績を落としたが、2018年は5勝7敗防御率3.87と持ち直し、6年ぶりに無四球完封勝利も記録した。
2018年オフにFA権行使を検討する報道もあったが行使せず中日残留を決めた。
金子は新天地で勝負するシーズンとなり、吉見は先発要員がおぼつかない中日でローテーションを支えることを望まれている。それぞれのチームで若手投手に好影響を与えるピッチングを期待したい。
参考文献
森繁和「軍師の逆襲」ヨシモトブックス、2014
- #18
- やきうには、「エースナンバー」とされる背番号があります。主として、各球団の「エース」とされる投手が着ける背番号です。
なぜエースナンバーが決まっていったかというと、過去の名投手が着けていた番号なので、その番号にあやかりたいという思いから投手がよく着ける背番号であり、また、球団側も期待の投手に与えることから結果としてエースナンバーが決まっていったもの、と思われます。このエースナンバーとしての扱いは、球団の経営が変わっても引き継がれる場合もあるようです。
また、エースナンバーも球団により異なるらしいのですが、例えば、”17”(ヤクルト:松岡弘、川崎憲次郎、DeNA:秋山登、斉藤明夫)、”20″(中日:杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄)、”21″(ソフトバンク:杉浦忠、工藤公康、和田毅、北海道日本ハム:土橋正幸、高橋直樹、西崎幸広、武田久)など、さまざまです。
さらに、エースナンバーがそもそも存在しないとされる球団もありますが、これにはなまじ大エースが着けていたために永久欠番になってしまったパターンもありそうです。阪神の”11″(村山実)、近鉄の”1″(鈴木啓示)などはこのパターンではないでしょうか。鈴木啓示の1は、NPBで投手が着ける背番号としては珍しいですが。また、広島で黒田博樹が着けていた”15″は永久欠番となりましたね。北海道日本ハムの”11″も、ダルビッシュ有、大谷翔平が着けていた番号であることを考えると、永久欠番にはならないにしてもなかなかに重たい番号といえるでしょう。
そういった、過去の名投手の背番号を継いで縁起を担ぐのは洋の東西を問わない気もしますが、これが不思議なことに、NPBにおいてはエースナンバーの概念がありますが、MLBではあまりないらしい、です。
縁起担ぎを逆手に取ったのか、ノムさんが南海の兼任監督時代、当時の東映から移籍してきた江本孟紀に、「俺が受ければお前二桁勝てるぞ(ちなみに前年の江本は0勝4敗!)」、「ウチでは10勝すればエースだからな」と散々おだてた上で、「お前がエースなんだから先にエースナンバーを着けておけ」と、”16″の着いたユニフォームを渡しましたが、野手が長く着けていた番号で、別にエースナンバーでもなんでもなかった、なんて話もあります。なおこの年の江本は16勝、見事にノムさんの期待に応えています。
もっとも著名なエースナンバーは” 18 “で、これはプロ野球創成期の大投手が着けていたからではないか、との説、加えて歌舞伎の「十八番」に通ずるからという説があります。大投手の背番号を引き継ぐ形で18を着けた選手は枚挙にいとまがありませんが、例えば巨人だと堀内恒夫、桑田真澄、菅野智之、広島だと長谷川良平、佐々岡真司、前田健太、千葉ロッテだと成田文男、伊良部秀明、清水直行、涌井秀章(西武時代も)がそうです。また、18以外の番号をエースナンバーとしている球団やエースナンバーが存在しないとされる球団でも18はエース級投手が着ける背番号、とされているようですね。米田哲也(阪急)、池田親興(阪神)、野田浩司(阪神)、藪恵壹(阪神)、三浦大輔(DeNA)、田中将大(楽天)、郭泰源(西武)、松坂大輔(西武、中日)などが18を着けています。北海道日本ハムの11同様、楽天の18は重くなりすぎてなかなか着けにくいところはあるかもしれません。
かように先発型の主戦投手が着けるイメージの強い背番号18ですが、あまり先発としては起用されない岸田護(オリックス)が18を着けているのは珍しい例かもしれません。まあこれは背番号変更の前年先発で好成績を挙げて変更されたから、という理由でしょうか?また、外野手の岡大海が北海道日本ハム時代に18を着けていたのは、「エースをねらえ!」のシャレなんですかね?ちなみに、岡は千葉ロッテ移籍後は39を着け、今年は25を着けます。
さて、巨人で堀内恒夫の前に 18 を着けていたのが藤田元司。巨人入団時、前に18を着けていた中尾碩志(通算209勝を挙げています)から、直接「エースナンバーだ」と言われたとのちに振り返っています。
藤田は、旧制新居浜中学(現在の新居浜東高校)から西条北高校(現在の西条高校)に転校して卒業。ちなみに、新居浜東高校の後輩には古沢憲司(阪神→西武→広島)が、西条高校の後輩には森本潔(阪急→中日)、沖原佳典(阪神→楽天)、秋山拓巳(阪神)がいます。
西条高校時代は、高校野球の解説でおなじみだった池西増夫氏とバッテリーを組んでいましたが、意外なことに甲子園出場経験はありません。
その後、慶応義塾大学へ進学し、エースとして活躍しましたが東京六大学での優勝経験は1年春のみ。その後、日本石油を経て1957年に巨人に。1957年から17勝(新人王)、29勝(MVP、最高勝率)、27勝(MVP、最多勝、最高勝率)と活躍しますが、酷使がたたり肩を壊して以降はあまり勝てず、1964年まで8年の現役生活で通算119勝を挙げて引退しました。
そういう経歴もあってか、「悲運のエース」とも呼ばれていました。
1981-1983年、1989-1992年の巨人監督時代は先発投手陣を整備し、最初の監督時代は江川卓、西本聖、定岡正二を、2度目の監督時代は、斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己を、それぞれ先発三本柱として確立させました。
特に、斎藤雅樹をサイドスローに転向させたばかりか、ノミの心臓と言われた斎藤に「投手は臆病でないとダメなんだ、それはお前がいろいろと考えている証拠だ」と諭して、ピンチでも代えずに「平成の大エース」に仕立て上げたことで有名ですが、野手でも岡崎郁、緒方耕一、駒田徳広をうまく活用し、また、川相昌弘を育て上げた、といえます。
また、太っていることを散々ネタにされた、西武から移籍してきた大久保博元(デーブ大久保)が隠れて食事していたのを見つけ、「お前は体が資本なんだから、もっと食べなきゃダメだろう」と、ステーキを奢り、大久保を号泣させたエピソードが残っています。
この他、藤田が4球団競合の末、ドラフト会議で引き当てた原辰徳は藤田の墓参を欠かさないとか、中日に移籍し現役生活を送っていた川相昌弘がキャンプ地の沖縄から葬儀に駆けつけた、などの話もあります。
監督としての手腕については、投手分業制が進んできたことに対応できなかったのではないか、とのかなり辛口の意見もありますが、投手出身の監督に対する評価が大変に厳しいノムさんは、藤田だけは別格、としています。
藤田は風貌や物腰も相まって、「球界の紳士」とも呼ばれていましたが、実は自他共に認める「瞬間湯沸かし器」で、かなり短気で有名でもありました。マウンドに交代告げに来る藤田の顔が怒りで真っ赤だった、と江川卓が述懐しているほどです。また、第1期監督時代は、長嶋茂雄監督解任直後でしたから、それはそれは藤田に対するマスコミの目は厳しく、就任一年目でのリーグ優勝・日本一も長嶋のおかげなどと書かれ放題で、ついには当時の正力亨オーナーも尻馬に乗って長嶋にラブコールを送ると、オーナー室に乗り込んで「私のことが不服なら、いつ辞めたっていいんです」と啖呵を切った、との話もあります。
高校の転校は学制改革の結果、とされているようですが、この頃はどうも相当な荒れ方で、毎日のように喧嘩していたそうです。森本潔の同級生の方によると、当時の西条高校の先生の話として「藤田はとにかく悪かった」と、よく聞かされたそうです。
そのあたりの話もひっくるめて、巨人ファンで知られる糸井重里と藤田の対談はとても興味深いです。
体温のある指導者。藤田元司。:https://www.1101.com/education_fujita/index.html
体温のある指導者。番外編:https://www.1101.com/fujita/2003-07-01.html
上述のように、巨人監督時代が特に印象深い藤田元司ですが、長嶋茂雄が打ったサヨナラ本塁打について、村山実が「あれはファウルや」と終生語り続けた、1959年6月25日の天覧試合で先発完投し、勝利投手となっています。
- #17 松井雅人(中日ドラゴンズ)
- 2009年ドラフト7位で中日に入団。背番号は38。同姓の松井佑介と同期入団で、スコアボードの表記は「松井雅」。あだ名は名前の一文字「雅」を訓読みした「みやび」。素直に「まさ」と読んでしまうと山本昌と紛らわしいからということもあるのだろうか。
2010年には開幕一軍入りし初安打も早々に放ったが、2ヶ月ほどで二軍落ちして13試合出場に留まる。2013年から出番が増え、2番手・3番手捕手あたりの立場でスタメンでも試合に出ることが多くなったが、打率が1割台に低迷。2016年は打撃が好調だった杉山翔大らに出番を奪われ、4試合出場に留まる。
2017年はチームの捕手としては最多の87試合に出場。6月9日のオリックスvs中日戦(京セラドーム大阪)で、クリス・マレーロがスタンドに入る打球を放ったが、出迎えたマスコットのバファローブル・ベルのコンビに気をとられたのか本塁を踏まずに空過してしまった。これを松井は見逃さず、審判にアピールしマレーロの来日初本塁打は幻となった。なお翌6月10日の試合でマレーロから今度こそ正真正銘のNPB初本塁打を浴び、松井の目の前で両足で本塁を踏まれ逆にアピールされてしまった。なお、この年の9月29日にマレーロはNPB公式戦通算100000号本塁打を放ち賞金100万円を獲得したが、松井は「僕のおかげですよ!賞金を分けてほしいです。(5000円くらい?)5000円じゃ足りないですよ」とスポーツ報知の取材に対しコメントした( https://web.archive.org/web/20180123215427/http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170930-OHT1T50065.html )。
なお99999号本塁打はマレーロの同僚のT-岡田が同じ試合で放ったもの(マレーロに賞金の折半を求めたが断られている)だったが、6月9日の試合は延長10回のステファン・ロメロのサヨナラ本塁打で決着した試合だったので、もしマレーロがちゃんと本塁を踏んでいたか、松井が本塁空過を見逃していた場合は延長に入らずロメロの本塁打がカウントされなかったので、いずれにせよマレーロが100000号本塁打を記録したことになる。とはいえオリックス球団も99999号本塁打を記念して、T-岡田に対して賞金99999円を贈呈しプレゼンターをマレーロが務めるという演出をした( https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/10/08/kiji/20171008s00001173096000c.html )。
2018年8月9日の広島vs中日戦(マツダスタジアム)の3回裏の攻撃。打者は鈴木誠也。審判のボールカウントのミスによりすでに四球を出している状態であるにもかかわらずスリーボール扱いで打席が続行。二ゴロに打ち取った。この時松井とバッテリーを組んでいた笠原祥太郎ともどもボールカウントに対する違和感はあったが、審判の判断に任せて試合を続けていた模様。
2018年は自己最多の92試合に出場。2017年、2018年と打撃は改善して打率2割を超えるようにはなったが、今度は盗塁阻止率の低さが課題となっている。2018年の盗塁阻止率はリーグ最下位の . 17 0でトップの小林誠司(巨人)の半分以下(.341)となってしまった。オープン戦ではプロ5年目の加藤匠馬が強肩をアピール中だが、谷繁元信の引退後は正捕手が固定できていない中日では、日本ハムからFA移籍したものの2018年は故障で出番の少なかった大野奨太をはじめ、目下のところスタメンで固定できる捕手がいないのが現状である。中日ファンの中の人として、昨年不調であった投手陣とともに、松井を含めた捕手陣にも奮起を期待したい。
- #16 加賀繁(横浜DeNAベイスターズ)
- 加賀繁は特にすごい選手ではない。
プロ9年間。通算12勝22敗。
特に速い球があるわけでもない。ものすごい変化球があるわけでもない。
ホームランもよく打たれる。点もよく取られる。
三浦大輔の引退試合、三浦からボールを受け取った後、あっさり2点取られていた。
加賀繁は中継ぎの投手だ。だからいつ出番が来るかわからないし、毎試合ブルペンで準備をする。
勝っているときも、負けているときも、来るかどうかわからない出番に向けて黙々と投球練習をし、ストレートとスライダーの出来を確認する。
この9年間、僕らが横浜スタジアムやテレビの前でベイスターズを応援するとき、彼はいつでもブルペンで静かに出番を待っていた。
加賀繁はハイタッチをするとき、利き腕の右腕を使う。普通の投手は故障を恐れて利き腕の逆を使うのに。
理由を尋ねると、「仲間と喜ぶのに利き腕とか逆とか関係ないよ」と笑う。
プロ9年間。279試合登板。
2018年9月。彼が引退試合でプロ生活最後の1球に選んだのは、10代の頃から一番練習を重ねて磨いてきたスライダーだった。
加賀繁は特にすごい選手ではない。
だけど、僕らは加賀繁を忘れない。
- #15 藤井将雄(福岡ダイエーホークス)
- 藤井将雄は約5シーズン在籍した中継ぎ投手である。
1999年のダイエーホークスリーグ初優勝に貢献した、という一見普通の(それも割と短めの)選手人生であるが、その短さには理由があり、彼のことはほとんどのホークスファンだけでなく、他球団の野球ファンにも深く記憶されているのである。
藤井は唐津商業高校から社会人野球の日産自動車九州に進み、エースとして活躍した。
1994年に福岡ダイエーホークスからドラフト4位指名を受け入団。以後、入団当初は先発投手であったが、3年目から中継ぎとして定着し、1999年には26ホールドを記録し、リーグ優勝に大きく貢献した。「炎の中継ぎエース」と言われ、次のシーズンも中継ぎの柱として活躍する・・・・・はずだった。
ところが、実際には1999年シーズンの半ばにはすでに彼の身体を病魔が襲い尽くしていたのだ。同年の夏頃から藤井はマウンド上で咳き込む様子が見られており、登板過多による疲れではないかと言われていた。しかし、日本シリーズ前の身体検査で異常が見つかり、シリーズ後に入院することになった。本人には知らされなかったが、藤井はこの時すでに余命3か月の末期肺癌であり、そのことを知っていたのは藤井の家族、中内正オーナー代行、瀬戸山隆三球団代表等のフロント上層部、王監督をはじめとする首脳陣の一部、個人後援会、後援会から病状を知らされた親友の若田部健一など一部の者のみだった。
「マウンドに上がるという気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから」
家族からの懇願もあり、藤井には間質性肺炎と偽った病名を伝えた。球団首脳もその意向を組み取り、藤井が優勝に貢献する活躍を見せたことを踏まえ、年俸倍増で契約更改した。藤井は11月に行われたV1記念パレードの翌日に入院した。
2000年、藤井は入退院を繰り返しつつ、二軍の練習に参加して二軍戦6試合に登板するまで回復した。最後のマウンドになるかもしれないことが伝えられていた王監督は藤井に「今すぐ一軍に上がって来い」と電話したが、藤井は「(二軍で)結果を出せていないのに(一軍に)上がることなどできません」と固辞し、一軍で登板することはなかった。6月末に福岡ドームの隣接する国立病院九州医療センターに再入院し、入院後もウェブサイトに日記を掲載し優勝を間近にしたナインに叱咤激励し続けたが10月には心臓や肺に水がたまる状態が続き、見舞客の話では、藤井は肺から管を通しベッドから起き上がることもできない状態だったという。
チームがV2を達成したのを見届けた6日後の2000年10月13日、容態が急変し、31歳という若さで早逝した。
32歳の誕生日を迎える3日前のことであった。
藤井の誕生日でもある10月16日に告別式が行われた。葬儀には王監督、ダイエー全選手の他、ジャイアンツの工藤公康、日本ハムファイターズの下柳剛も参列した。出棺の際、若田部、工藤を筆頭に、秋山幸二、小久保裕紀、村松有人、松中信彦、城島健司、鳥越裕介、大道典嘉、西村龍次が藤井の棺を担いだ。工藤と若田部の2人は火葬にも立ち会い、藤井との別れを惜しんだ。若田部と工藤は同年の日本シリーズの第1戦に先発として対戦したが、それぞれ藤井の右腕の遺骨をしのばせて登板している。
福岡ヤフオクドームのロッカールームには、藤井が入院した頃から背中に「FUJII」「 15 」と手書きされたハリーホーク人形が置かれていた、「藤井ハリー」と呼ばれるこの人形は、優勝が近づくとベンチに置かれ、胴上げにも毎回加わっていた。この藤井ハリーはチームがダイエーからソフトバンクに移行した後もユニフォームを着替えてロッカーに飾られていた。近年、優勝の胴上げ時に藤井ハリーは登場しないが、それは現在藤井ハリーが遺族のもとにあるからである。ヤフオクドームの15番通路は「藤井ゲート」として記念プレートと、藤井の最後のメッセージが掲げられている。現在、背番号15は準永久欠番として扱われている。
以下、すこし長いけど藤井の最後のメッセージを掲載します。中の人は、このカウントダウンを書きながら涙が止まらなくなりました。
皆様へ(管理人代記)
2000年10月17日 火
今の自分があるのは、過去から現在において出会ったすべての人のおかげだと思います。その中の誰一人がかけても、今のこの幸せな自分は存在しませんでした。だから、すべての人に感謝しています。
プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。でも、ボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。そのことがうれしかったんです。
6年前の入団発表のとき、王監督を胴上げしたいと抱負を述べました。その願いも去年のリーグ優勝と日本一で無事に達成できました。そして、今年はチーム全員で頑張ってつかんだV2。すばらしい野球人生だったと胸を張れます。
この病気には自分自身、すごく勉強させてもらいました。孤独や優しさ、思いやり、不安。人間の本当の感情に触れることができました。今までのボクは上っ面のとこしか見えてなかったんだなとも思いました。すべては、この病気が教えてくれたことです。
この一年間、ゆっくりと休ませてもらいました。あらためて野球を頑張ろうという気持ちにさせてくれた中内正オーナー代行はじめ球団の方々、王監督、チームメートの皆、感謝の気持ちは忘れません。そして、生きる希望を与えてくださったファンの皆様、ありがとうございました。これからもダイエーホークスを応援してください。
藤井将雄
- #14 小宮山悟(千葉ロッテマリーンズ)
- 千葉県柏市出身。小宮山が入学する前年に開校したばかりの芝浦工大柏高校に進み野球部に入部。高2時にテレビ中継で放送していた東京六大学野球の早大vs法大を見たのがきっかけで早大進学を志す。
高3時に早大野球部の練習に参加し、現役選手からピッチングを絶賛され野球部のセレクションに残る。一般入試を受けなくては入学できなかったのだが、勉強が必要と思わないまま入試に臨み不合格。その後2年の浪人生活を送るが、その間野球は月1回の草野球のみ、走り込みはおろか100m先の自販機にも原付バイクで移動、勉強嫌いで受験勉強には身が入らず、しかし早稲田大学と野球部の歴史の調べ物だけは非常に熱心にやる(小宮山の著書でもその知識量と熱量が伝わってくる)、という為体だったと小宮山は回顧している。さすがに2浪目の11月の予備校模試でもひどい成績だったのでここでやっと一念発起し受験勉強に力を入れる。手堅い職業に就くように、という親からの希望もあって早大教育学部に進学し、卒業時には保健体育の教員免許を取得した。高校〜大学の頃はプロ野球選手になるとは考えておらず、「とにかく野球部で4年野球を続ける」という目標を立て、社会人野球を経験した後に学生野球の指導者になるというキャリアパスを想定していたという。
(中の人も浪人生活が長かったので、浪人時代の学習意欲の上がらなさぶりや、後述の大学に入った後の戸惑いは身をもって非常によくわかる…)
高校野球では実績がほぼなく野球部の練習も強豪校のそれには遠く及ばなかったという無名校から、浪人時代もまともに練習していない状態で入った早大野球部では入部当初走ることすらままならなかった。しかし金田正一監督率いるプロ1年目のロッテ時代より走り込みの量が多かったと振り返るほどの走り込みで体力がつき、打撃投手として1日600球ほど投げ込みを続けるうちに無理のない投球フォームを習得し頭角を現す。
2年秋の早慶戦でリーグ戦に初登板。横浜で同僚であった中野渡進は、著書で小宮山を「投げる精密機械」と言われていたがまさかの精神論者だったと評したが、小宮山自身がもともと持ち合わせていた身体能力の高さや、この時代の先輩・指導者の理不尽とも思える指導を極力肯定的に捉え受け入れていった経緯も関係しているかもしれない。なお、小宮山自身は「肩や肘を壊すほど投げ込むのはダメだが、投げ込みの必要な投手もいる」という立場である。
4年時に野球部主将に任命された。日米大学野球の日本代表に選ばれ、のちにプロ入りする選手とともに出場したが、NPBでプロ入りを考えたのはドラフト会議の直前だった。1989年のドラフト1位でロッテに入団(野茂英雄の外れ1位)。背番号は 14 。
プロ入り後は伊良部秀輝とともにロッテの先輩である牛島和彦のもとに毎日のように通い、投球術とプロの心構えを学んだ。1年目から先発として活躍し、2年目の1991年から4年連続で開幕投手を務めるが、チーム事情もあり1994年まですべて負け越していた(1991年・1992年はリーグ最多敗戦)。
1994年に右肘を故障したこと、そして1995年ロッテにボビー・バレンタイン監督が腹心のコーチらとともに就任したことが、「『弱いチームでいかにプロらしい仕事をするか』から『優勝を意識していかにチームに貢献するか』へ」「『故障を恐れずに全力でプレーする』から『無理せず、長くプレーを続ける』へ」意識を変えるきっかけになった。
チームが2位に躍進した1995年には11勝4敗で初のシーズン勝ち越しを記録。1997年には最優秀防御率のタイトルを獲得。この頃オリックス時代のイチローをよく抑えていたが、小宮山はだいぶピッチングの工夫をした上で最終的に打ち取っていたとしても「あれだけ考えて投げた球もうまく打たれてしまった」という感触しかなかったという。ただそれだけ高いレベルの駆け引きができていたので、イチローの打席は楽しみだったと振り返っている。
小宮山はロッテの幹部に「チームを強くする気はあるのか」と再三迫ったが、明確な返事がもらえない状況が続いた。FA権を取得したら移籍も考慮に入れるなどとも伝えていたが、FA権を取得した1999年オフに自由契約となり横浜に移籍した。
2001年に開幕投手を務めたが、衰えを感じ始め、現役生活の最後はバレンタイン監督と野球がしたいという思いもありFA権を行使しMLB挑戦。バレンタイン監督がいるメッツへ移籍した。横浜時代の背番号27は、早大野球部の後輩で、小宮山と同じく2浪の末早大に進学した経歴をもつ江尻慎太郎も着用した(2011〜2012年)。なお、飲めない小宮山が強引に飲みに連れて行こうとした中野渡に巴投げ(小宮山は背負い投げと証言)されたのは、2001年の横浜の納会であった。
メッツではすべて救援登板だったが1勝もできず。ただマイナー落ちした際は3Aで先発登板も経験している。MLBで成功しようという意欲が強くなかったため結果が残せず、現役時代に戻れるならもっとMLBで必死になりたかったと小宮山は後悔の念を語っている。ただ、MLBのシステムを体感しながら学べたことは収穫であったともし、この経験をもとに著書などでも日本の野球のシステムについて問題提起している。2002年オフにメッツを退団。小宮山の退団の数日後にはバレンタインも監督を解任された。
2003年は球団に所属せず、母校の早大などでトレーニングがてら「現役選手」の立場で野球解説も務める。この年は早慶戦100周年記念のOB戦に登板する話があったため、これがトレーニングのモチベーション維持につながったという。2003年オフにバレンタインが再びロッテの監督に就任。バレンタインからのオファーとオーナーの判断もあり小宮山もロッテに復帰した。2004年は先発起用されていたが、選手としてのブランクもあり3勝4敗。
この年のオフに揺れるボールの習得をバレンタイン監督から頼まれたが、ナックルはうまく投げられなかったため試行錯誤の末、フォークボールの握りで親指を添えず人差し指と中指だけで握る「シェイク」を開発。実戦でもシェイクで十分打者を打ち取る自信はあったというが、出番の関係もあって大差のついた場面などでシェイクを披露することが多かった。
2005年は先発ローテーションを守れる投手がほぼシーズン通して6人揃ったこともあり常時ブルペン待機を命じられ、敗戦処理中心でリリーフ登板。チームは序盤から快進撃を続け、最後はソフトバンクにかわされシーズン2位となったがプレーオフを勝ち上がりリーグ優勝を果たした。
プロ野球選手と並行して、早稲田大学大学院で投球動作とバイオメカニクスの研究を始めた。しかし大学院入試がこの年の日本シリーズ第1戦(濃霧コールドでロッテが阪神に勝利)の当日と重なっていた。球団には何も伝えず大学院進学に向けて動いていたが、早稲田の大学院のキャンパスがある所沢で入試を受けた後で千葉に直行して試合には間に合ったという。その後は選手生活と並行して大学院の研究を進め、2008年に大学院修士課程を修了した。
2009年は序盤で防御率が2桁を超えてしまい5月に二軍落ちすると、バレンタイン監督に現役引退の意向を伝えた(公に表明したのは9月20日)。10月6日のvs楽天戦(千葉マリン)の9回表二死二塁の場面で登板し、フェルナンド・セギノールを1球で打ち取り、同い年の山本昌(中日)が2006年に記録していたNPB最年長セーブ記録を更新して現役最後の登板をしめくくった(なお最年長セーブ記録はその後斎藤隆(楽天)が更新)。また、この年でバレンタインもロッテ監督を退任した。
引退後は野球解説者を務める。サッカー、とりわけ熱烈なJリーグの地元チーム・柏レイソルのファンでもあり2014年よりJリーグ理事も務めている。
2019年、早大野球部監督に就任。監督就任に合わせ学生の手前身だしなみとして髭を剃ったが、テレビ出演の際に娘にも別人と思われたほど人相が変わっている( https://www.asahi.com/articles/ASLCC5TJYLCCUTQP01R.html )。早稲田の伝統を守りつつ、大学生や野球をとりまく環境の変化にも選手とともに適応できる新たな指導者像の構築に期待したい。
参考文献
小宮山悟「天才なのに消える人 凡才だけど生き残る人」フォレスト出版、2012。
小宮山悟「「まわり道」の効用—画期的「浪人のすすめ」」講談社、2010。
中野渡進「球団と喧嘩してクビになった野球選手」双葉社、2014。
- #13
- 「きょーぉも、カープはかーちかーちかっちかち!」
23時過ぎ、仕事から帰ってきた彼は玄関の扉を閉めるなり、弾むような声で歌った。広島出身の彼はもちろん広島カープのファン。野球を見ない私でも広島が勝った日はこうやって知ることができる。
「スポーツニュース見たいからテレビつけて」
鞄を置き部屋着に着替えながら言う彼にあわせて、私はテレビをつけてなんとかSportsの番組に変える。逆にカープの歌を歌わない日やテレビをつけてと言わない日は見たくない日、つまり負けた日だ。
彼が野球が好きだと知ったのは一緒に暮らしてしばらくしてからだった。宗教と政治と野球の話は喧嘩になるからというよくある理由だが、私が野球のことは何も知らないと伝えると、少しガッカリしていた。広島は鯉のぼりが上る季節まで調子がよくて、鯉のぼりを降ろすと広島も悪くなるんだよ。嘘か真か判別できない私に、彼は面白おかしく広島のことを教えてくれた。
Twitterのベイスたんを教えてくれたのも彼だ。面白いツイートをしているキャラを探している時に教えてくれた。確かにキャラや喋り方は可愛いのだが、万年最下位の横浜が勝った時だけご飯が食べられるという過酷な設定で、ガリガリに痩せていくベイスたんを見ているうちに、私は中村ノリさんやラミレス、筒香を覚えた。
ある日、彼がハマスタで行われる横浜対広島の試合を観に行こうと誘ってくれた。最下位を争う横浜対広島なら他の球団にも迷惑かけないね、なんて話をしながら中学の卒業旅行以来の中華街で梅蘭の焼きそばを食べ、3塁側ベンチ上の前から2列目でファウルボールに怯えながら野球を見た。まだどこのファンでもなかった私は、広島も横浜もどちらも打てば喜んだ。確かその日は広島が勝ったと思う。
付き合い始めのころ取引先の人だった彼は、私が会社を変えても今も取引先の人だ。彼には奥さんもお子さんもいる。
広島の優勝が決まりニュース速報でも流れた翌日、打ち合わせで私の会社に来ていた彼と廊下ですれ違う。私は広島優勝おめでとう、と伝えた。彼は話しかけられると思ってなかったようで、少し間を置いてからありがとうと答えた。
彼とはそれ以来、話してはいない。
だから彼は、私が野球ファンになったことを知らない。
- #12
- 今は昔、最終回の主と云ふ者ありけり。近江の藤を引き継ぎ敵首を取りつつ、守護の数を重ねけり。名をば、石山の泰稚となむいひける。
横の濱のなかに、もと泥まみれで黒光りする筒ありけり。あやしがりて様子見球を放るに、筒の香が振りにけり。行方を見れば、4尺5寸ばかりなる五里の君、右翼席を見つめてゐたり。
石山云ふ、
「われ朝ごと夕ごとに見る盛り土の上におはするにて知りぬ。三振にたまうべき人なめり」
とて、続く崎の宮も楠の本をも塁へ送り、また田にて芝を刈るものもその球を見極めて塁が埋まりぬ。
妻の悠平の嫗にリードを預け、ひのもとのをのこ大和を三振に取りぬれば、嬉しきこと限りなし。
青山の杜はいと盛り上がりぬれば、勝ち球を大手袋に入れてしまいぬ。
2000と18年、葉月第25日のことじゃったとさ。 めでたしめでたし。
- #11 村山実(阪神タイガース)
- 「ミスター」といっても、別段、「ミスターどうでしょう」鈴井貴之氏の話をここでしたいわけではありません。
NPB各球団には「ミスター〇〇」と呼ばれる、レジェンドとしかいいようのない名選手がたくさんいらっしゃいます。
「〇〇」の部分には大抵の場合、チーム名が入るのですが、「〇〇」の部分がないか、もしくは「プロ野球」が入るのが長嶋茂雄です。確かに「ミスタージャイアンツ」という言い方は、少なくともオールド巨人ファンはあまりしないように思います。
「ミスターロッテ」は有藤通世、「ミスターブレーブス」は長池徳士、「ミスタースワローズ」は若松勉、といった感じです。「ミスターファイターズ」は田中幸雄(内野手の方)、「ミスターホエールズ」は松原誠、でいいのかな?また、「ミスターイーグルス」は礒部公一でしょうか?それとも、ミスターイーグルスはまだ出ていない、という判断でしょうか?
チーム名ではなく、ヘルメットの色で呼ばれる方もいらっしゃいまして、それはもちろん「ミスター赤ヘル」山本浩二です。
ものすごい実績を上げていても、基本的にはそのチーム一筋、という選手じゃないと「ミスター」とは呼ばれないようです。金田正一は確かにそうは呼ばれませんね。
逆に、同じチーム一筋の大選手でも「ミスター」と呼ばれる、と限ったものでもないようです。王貞治の場合は長嶋茂雄の存在のためか、そう呼ばれることはありませんし、鈴木啓示も「ミスター近鉄」あるいは「ミスターバファローズ」とは呼ばれません。稲尾和久も「ミスターライオンズ」とは呼ばれませんが、やはり「神様、仏様、稲尾様」「鉄腕稲尾」が強烈過ぎるんでしょうか。三浦大輔も「番長」が強烈すぎるんですかね?
他方で、「ミスター〇〇」が複数名存在するパターンもあるようです。
例えば「ミスターロッテ」に初芝清を加える場合もあるそうですが、筆者個人としては初芝清というブランドをまず考えて、果たしてミスターロッテとして一球団に押し込めていいものか?という疑問があります。そもそもミスターロッテには村田兆治が入ってませんし、初芝入れるなら園川一美も加えるべきという気もしますし。
すでに「ミスター〇〇」と呼ばれる選手がいた場合も、なかなか2代目、3代目と認められるのは大変なようです。マスコミが呼べば定着するというものでもありませんから。
ところが、「ミスタードラゴンズ」は3名いるそうですが、いずれも球団の公式認定?のようで、初代・西沢道夫、2代目・高木守道、3代目・立浪和義、ということのようです。杉下茂や星野仙一や山本昌や岩瀬仁紀は違うのか?と思いますが、杉下は神様扱いだから別格なんでしょうか。
「ミスターホークス」も正直よくわからないんですが、鶴岡一人、杉浦忠、門田博光、小久保裕紀、松中信彦の5名をカウントする場合があるそうで、選手生活送ったにせよ、むしろ監督として有名な鶴岡が入っていることが異彩を放っています。また、杉浦は「史上最強のアンダースロー」の二つ名がありますから、もしこの中から誰か一人、といえばやはり鶴岡なんでしょうねえ。なお、ノムさんは現役のほとんどのキャリアを南海ホークスで送りながら、そう呼ばれることはありません。広瀬叔功の名前が挙がってないのも不思議といえば不思議です。「ミスターブレーブス」も、福本豊や山田久志の名前は挙がらないようですね。
「ミスターライオンズ」は西武以降のみで考えても名前が挙がる人数多すぎて百家争鳴でよくわからない状態でしょうか。一方で、近鉄については「ミスター」は存在しない、という理解だと思います。個人的にもっとも近鉄らしい選手って、鈴木啓示でも佐々木恭介でも栗橋茂でも梨田昌孝でも平野光泰でもラルフ・ブライアントでもなく、「モーやん」こと小川亨のような気もしますが、ミスターと呼ぶのとは絶対に違いますな。オリックスについては、藤井康雄を「ミスターブルーウェーブ」、と呼ぶとの説があります。
この手の、「ミスター〇〇」といえば?とか、「ミスター〇〇」は誰だ?みたいな話は、贔屓チームのファン同士でやると結構盛り上がります。
さて、そんな「ミスター〇〇」の中で、人数や誰を入れるかで、人により一番違いがありそうなのが「ミスタータイガース」。
原理主義的に「ミスタータイガース」は一人だけ、としてしまうと初代・藤村富美男のみになってしまいます。広げていくと、3代目・田淵幸一、4代目・掛布雅之を含める、どころか、マスコミなどではそれ以外のいろんな選手を「ミスタータイガース」にふさわしいとしている場合もあるようで、正直どこまで含まれるものか、さっぱりわかりません。
阪神ファンの場合、特にオールドファンが含まれていると「ミスタータイガース」ネタはものすごく盛り上がるか、場が険悪になるかのどちらかのような気がします。
「ミスタータイガース」は一人だけ、とするオールドファンの方でも「それは確かに一理ある」と一目も二目も置いていそうなのが2代目「ミスタータイガース」の村山実。
住友工業高校(現在の尼崎市立尼崎双星高校)から関西大学へ進みますが、実は立教大学のセレクションを受けていて、「背が低い」ことを理由に落とされています。立教に進学していれば、1年上に長嶋茂雄がいたことになりますね。関西大学では、阪急、オリックス、日本ハムで監督を務めた上田利治とバッテリーを組んでいました。
関西大学時代も3年次に肩を壊したことから、それまで入団の誘いに群がっていたプロ球団が潮が引くように離れていきますが(巨人もその一つ)、4年次に復活し、また巨人を含む各球団の争奪戦に。
結局、変わることなく親身に球団代表が相談に乗ってくれた阪神に入団。ドラフト制度導入前のことであり、阪神の契約金は巨人の提示の1/4だったそうです。阪神もさすがにそれは申し訳ないと思ったのか、阪神電鉄本社から出向の形をとり、プロ野球選手として活躍できなかった場合の、一種の身分保障をしています。
背番号は、関西大学以来 11 。これは監督時代も変わりませんでした。阪神タイガースの永久欠番です。
投手としては、1959年の入団初年以来、1972年までの通算14年で509試合登板、222勝147敗。いわゆる名球会会員の投手としては、黒田博樹が現れるまでは、大卒で唯一のNPB/MLB通算200勝投手でした(名球会会員以外だと若林忠志、杉下茂、藤本英雄が大卒200勝以上)。
取ったタイトルも数多く、最多勝2回(1965年、1966年)、最優秀防御率3回(1959年、1962年、1970年)、最多奪三振2回(1965年、1966年)、最高勝率1回(1970年)を記録しています。
また、MVP1回(1962年)、沢村賞3回(1959年、1965年、1966年)を獲得していますが、新人で沢村賞と最優秀防御率をとっていながら、1959年の新人王は、新人で本塁打王を獲得した桑田武(大洋)でした。
1970年のシーズン防御率0.98は、規定投球回数以上投げた投手の中で、戦後唯一の0点台です。
阪神のエースは、村山の入団当初は小山正明でしたが、代わって村山がエースとなり、のちには村山が江夏豊にエースの座を譲った格好です。
現役時代はその全身を使い闘志むき出しで投げる様子から、陸上選手の名前から取られた「ザトペック投法」と呼ばれたそうですが、そもそも筆者にはザトペックがわかりません。投球フォームはオーバースロー、スリークォーター、サイドスローを使い分け、決め球のフォークボールも種類があったばかりか、フォークを多投とするピッチャーであるにも関わらず、3,000イニングを超える投球回数で、暴投の数は16と、極めて少なかったりします。また、何点差がついていようが、一切手を抜かず、気も抜かずに全力で投げる投手としても有名でした。
他には、漫画「巨人の星」では、実名で登場しながらも、実は「花形満」のモデルともなっていたそうなのですが、正直、巨人への対抗意識以外で、村山のどこをモデルにしたら花形満になるのか、これまた筆者にはさっぱりです。
長嶋茂雄を終生のライバルとしたことは有名で、天覧試合で打たれたサヨナラホームランは、最後まで「あれはファウルや」と語っていたそうですが、節目の1,500奪三振、2,000奪三振は長嶋から奪っています。長嶋に対しては「どんな手を使っても打ち取る」と宣言していたのに対し、長嶋も「バントしてでも三振しない」と返していましたが、実際は村山は真っ向勝負で長嶋に対する死球はなく、長嶋も常にフルスイングで応じていました。
また、本人は長嶋をライバルとする一方、後輩として入ってきた江夏豊には「お前の相手はあっち(王)」として、王をライバルとするように伝えた、との話がありますが、その江夏はシーズン新記録となった354個目の三振を王から奪っています。
選手生活は腱鞘炎や血行障害に悩まされながらもこれだけの成績を挙げた一方で、監督としては特に最初の選手兼任監督時代にとにかくマスコミとお家騒動に泣かされた印象です。
江夏も、村山のプロ意識を誤解して一時期険悪となっていました。しかし、その江夏は、村山の引退試合の際には他の投手と騎馬を組んで、村山を乗せてマウンドに送っています。また、江夏は、村山は良き兄貴分だったこと、村山には世話になりっぱなしで何も返せなかったことを後日述懐しています。村山の引退試合で挨拶した浪花千栄子(オロナイン軟膏のホーロー看板の女優さん)は「村山はん、ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに……。」と言葉を詰まらせていました。
61歳の若さで逝去した際には、葬儀に集まった大勢のファンが「六甲颪」の大合唱で霊柩車を送ったそうで、ファンというのはよくわかっているなあ、と思います。
- #10 中野渡進(横浜ベイスターズ)
- どうも、つい本音を言いすぎて人間関係でトラブルを起こしがちな中の人です。今日はそんな本音を言いすぎる元ピッチャーのお話を。
1999年ドラフト7位で横浜に入団。背番号は52。なお、入団時・退団時の興味深い裏話については中野渡の著書で読むことができる。
背ネーム(ユニフォームの背中に入れる英名)が12文字(NAKANOWATARI)と長かった(堤内健(元横浜、TSUTSUMIUCHI)、源五郎丸洋(元阪神、GENGOROUMARU)も12文字。2018年ドラフト1位でDeNAに入団した上茶谷大河はKAMICHATANIで11文字)。その後下敷領悠太(元ロッテ)がSHIMOSHIKIRYOの13文字で文字数ではこれらの例を上回った。
2年目の2001年にすべてリリーフで63試合に登板し5勝1敗、防御率2.61と結果を残す。この年のオフに初めて大学・社会人選手に混ざりプロ選手・高校生も参加する混成チームとなった第34回IBAFワールドカップ日本代表に選出。
しかし2002年以降は故障と(本人曰く)「飼い殺し」状態だったため出番が激減。2003年オフに戦力外通告を受け引退。
2004年に弟とともに東京・国分寺市に「もつ鍋わたり」を開店。横浜の選手だけでなく、本拠地の近い西武や元同僚である小宮山悟の縁もあってかロッテの選手、現役時代バッテリーを組んでいた谷繁元信らもよく利用していた。ここで修業しもつ鍋店を開いた元プロ野球選手もいた模様。
大洋時代からの横浜ファンであるライター・村瀬秀信氏がよく取材に訪れ、「漫画実話ナックルズ」の連載をはじめ、「Sports Graphic Number」のWebコラムなどでも不定期に登場し「野球のことはわかんねえよ、俺はもつ鍋屋だからよ」を枕に毒舌たっぷりの野球談義を繰り広げた(写真は村瀬氏が編集を担当した中野渡の著書の書影)。同期入団で、ともに横浜のリリーフ陣を支えた木塚敦志(現DeNAコーチ)の話題は感傷的&ほのぼのモードになった印象。
2011年の「週プレNEWS」( http://news.livedoor.com/article/detail/5928165/ )インタビューで、当時の横浜の投手陣再建案として当時のクローザーだった山口俊(現巨人)を1イニング限定の先発に起用する大胆な提案を行っていたが、今にして思えばその後2018年のMLBでレイズが採用して話題となったオープナー制の考え方を先取りしていたとも言えなくは…
「もつ鍋わたり」は2014年に惜しまれつつ 10 年の歴史に幕を閉じ、村瀬氏との連載も終了。現在は会社員。なお、ともに店を切り盛りしていた弟はその後東京・東村山市に新たにもつ鍋店を開店した。
長い背ネームといえば、MLBで最長の14文字のジャロッド・サルタラマッキア(SALTALAMACCIA)のように大きめの文字をアーチ状に無理矢理詰め込んだユニフォームを作りたいなどと考えてしまう中の人による本日のカウントダウンでした。
#9~#0
- #9 五十嵐章人(大阪近鉄バファローズ)
- 高校では投手兼3番打者、社会人では外野手として活躍。
1990年ドラフト3位でロッテに外野手として入団。背番号は 9 。ロッテには1997年まで在籍し、五十嵐が退団後の1998年からは背番号70から変更した福浦和也が現在も背番号 9 を背負い続けている。
1年目は主に右翼手として起用され28試合にスタメン出場。平井光親(この年首位打者を獲得)、横田真之との併用で、偵察要員との交代で出場する試合もあった。プロ初ホームランは6月11日のオリックス戦。この日の打順は 9 番であった。
ロッテの本拠地が千葉に移転した1992年は12試合の出場にとどまる。1993年は遊撃手にコンバートされ、1994年は二塁手として出場機会を増やし97試合に出場。打順は2番での出場が多くなった。1995年はボビー・バレンタイン監督が就任し打線が日替わり状態となって、3番・4番・5番以外のすべての打順でスタメンを経験した。さらに一塁手・三塁手の守備にも就いたどころか、5月7日には控え捕手を使い切ってしまったため急造捕手として出場した。
1998年に渡部高史との交換トレードでオリックスに移籍した。2000年6月3日のvs近鉄戦(大阪ドーム)、3対16とオリックスが大きくリードされた8回裏に投手として登板し1回無失点に抑えた。投手としての試合出場は高校時代以来で、これにより 9 つの 全ポジションで試合出場 というNPBでは史上2人目の記録を達成した。この記録が達成できると知っていた仰木彬監督による投手起用であった。
2001年6月22日のvs西武戦(ナゴヤドーム)では4番・一塁手でスタメン出場し本塁打を放った。これにより全打順でのスタメン出場も達成したが、4番に座ったのはこの試合のみであった。
2002年に金銭トレードで近鉄に移籍。4月21日のvsダイエー戦(大阪ドーム)で8番・二塁手でスタメン出場し本塁打を放ったことで、NPBでは史上6人目の1番から 9 番の 全打順で本塁打 を放つ記録を残した。2018年シーズンまでで全打順本塁打を達成した選手は 9 名いるが、26本の本塁打(これが現役最後の本塁打となった)で達成したのは最少で、五十嵐以外に2桁で達成した選手も72本で達成した後藤光尊(オリックス→楽天)のみである。全ポジション出場・全打順本塁打を両方達成した選手はNPBでは五十嵐のみで、MLBでも両方達成した選手は存在しない。
珍しい記録を達成した2002年だが27試合の出場にとどまった。2003年現役を引退。引退後はソフトバンクのコーチや独立リーグの監督などを歴任。
少ない本数で全打順本塁打と聞いて、「一度UPCをとったポータルは極力再キャプチャしない」という縛りプレイをしているAGさんがいることを人伝に聞いたことを思い出したりしている中の人による本日のカウントダウンでした。
- #8 後藤修
- 球団を渡り歩いた背景
複数のチームを渡り歩くスポーツ選手のことをジャーニーマンと呼ぶことがある。対義語として現役生活を1つのチームで全うするスポーツ選手を指すフランチャイズプレイヤー(サッカーではバンディエラ、ワンクラブマンとも)という語もある。
今日はNPBでジャーニーマンとして記録を持っている後藤修をとりあげる。高校時代は「文武両道」を地で行き学業成績も優秀な人物だったという( http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=018-20131007-01 )が、大学には進まず1952年の高校卒業後にプロ入り。1〜2年おきにNPB史上最多の 8 球団を渡り歩いた左腕投手。あだ名は「ジプシー後藤」「ジプシーの修」。ちなみに現在の球団でいえば
松竹→現存せず(大洋と合併、現在のDeNA)
大洋松竹・洋松→DeNA
東映→日本ハム
大映→現存せず(毎日と合併、現在のロッテ)
近鉄→現存せず(オリックスと合併)
南海→ソフトバンク
西鉄→西武
である。
松竹→大洋松竹の移籍は球団合併に伴うものであったが、それ以外の移籍はすべてテスト入団であった。
巨人→近鉄の移籍は、巨人の二軍監督であった千葉茂の近鉄監督就任にあわせたものという理由もあったが、その千葉は後藤を「奇人」と評していた。入団テストの時点でコンディションがピークになるように調整する方法を身につけており、これがテスト合格のコツだったと後藤は語っている。肩がやたら強く、巨人時代には後楽園球場のホームベースからライトスタンド場外にボールを投げ込んだことがあるという逸話も。また、移籍の際にも野球協約・統一契約書を踏まえて年俸の踏み倒しを避け交渉で年俸アップを勝ち取る、テスト生の身でありながら指導者を正面から批判する、などといったエピソードが多数ある。前述の千葉をはじめ周囲は「奇人」と評価していた後藤だが、自主性や合理性を求める当時強かった巨人、南海、西鉄などとは相性がよく、精神主義を求めるチームとは反りが合わなかったと振り返っている。西鉄退団後に阪急の入団テストを受けたが、当時の西本幸雄監督が落ちる球を投げる左投手はいらないと持論を展開したことに反論し、引退した。
基本的にストレートで勝負する投球で変化球はほとんど覚えられなかったが、ナックルボールだけは習得した。ただ実戦でナックルボールを投げた際にはストライクゾーンの中央に投げてもカーブの失投であるとされてボール扱いだったという(注1)。
松竹の新人時代は月給2万円、現役最後の西鉄時代は月給9万円と移籍のたびに給与が右肩上がりであった(注2)が、これは当時の物価上昇に伴う最低給与のラインの引き上げと、後藤自ら退団を申し入れて移籍した場合は給与が下がりにくいという事情もあったと回顧している。
引退後は野球評論家として活動しつつも職を転々とした模様( http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/sensyu/50n/gotou_osamu.htm )。しかしゴルフ雑誌の連載企画が後藤のもとに持ち込まれたのをきっかけにゴルフに開眼。ゴルフのトッププロの指導を専門とするティーチングプロに転身して実績を残している。
最近では…
近年複数球団を渡り歩いた選手としては
中村紀洋 近鉄(→ドジャース)→オリックス→中日→楽天→横浜・DeNA(NPBで5球団、MLBで1球団)
斉藤秀光 オリックス→阪神→オリックス→楽天→ソフトバンク→横浜(NPBで5球団)(注3)
山崎浩司 近鉄→オリックス→広島→オリックス→西武→楽天(NPBで5球団)(注4)
と5球団の例はあるが、NPBだけで出戻りを含まず6球団以上渡り歩いた選手は後藤のみである。
また、
ホセ・フェルナンデス ロッテ→西武→楽天→オリックス→西武→楽天→オリックス(NPBで4球団)
のように、同じ球団をぐるぐる渡り歩く例もある。また、ロッテ時代にフェルナンデスと同じ応援歌が使われたホセ・オーティズもNPBでは4球団(オリックス、ロッテ、ソフトバンク、西武)に在籍した。
また、1年ごとに所属球団が変わった例としては
柴田佳主也(2002以降) 日本ハム→阪神→ダイエー
岡島秀樹(2012以降) ソフトバンク→アスレチックス→ソフトバンク→DeNA
があるが、いずれも後藤と同じく左のリリーフ投手である。
海外や国内独立リーグを股にかけ渡り歩いた例としては
木田優夫
巨人→オリックス→タイガース→オリックス→ドジャース→マリナーズ→ヤクルト→日本ハム→BCリーグ・石川(現日本ハムコーチ)
吉井理人
近鉄→ヤクルト→メッツ→ロッキーズ→エクスポズ→オリックス→ロッテ(現ロッテコーチ)
高津臣吾
ヤクルト→ホワイトソックス→メッツ→ヤクルト→韓国・ウリ→台湾・興農→BCリーグ・新潟(現ヤクルト二軍監督)
などがある。
(注1)当時、審判によってはストライクゾーンにボールを投げても、審判が失投と判断するとボール扱いにしていた模様。
(注2)後藤がプロ入りした1952年(昭和27年)の小学校教員の初任給が5850円、巡査の初任給が6900円、国家公務員上級職試験(現在の総合職試験、一般職試験(本省採用等)レベル)合格者の初任給が7650円であった。
(注3)オリックスはどちらもブルーウェーブ時代。一度出戻ってから楽天創設時に分配トレードで移籍した。
(注4)近鉄からオリックスの移籍は球団合併・楽天創設に伴う分配トレードによるものだが、翌シーズンを迎える直前に広島にトレード移籍した。
参考文献
後藤修/落合修一(取材・構成)「移籍のスペシャリストに訊く その2 セパ8球団を渡り歩いた「流浪の左腕」後藤修」ベースボールマガジン、2014年3月号、60〜61ページ
近藤唯之「野球を面白くした名人たち」太陽企画出版、1989
週刊朝日(編)「値段の明治大正昭和風俗史」朝日新聞社、1981
週刊朝日(編)「続・値段の明治大正昭和風俗史」朝日新聞社、1981
- #7 宇野勝(千葉ロッテマリーンズ)
- 1976年ドラフト3位で中日に入団。この年は銚子商から夏の甲子園に出場しベスト8まで進んだが、安打はわずかに1本。中日のスカウトからは三遊間の深い当たりを処理して一塁で走者を刺した強肩を評価していたと言われたとのこと。
プロ2年目の1978年後半から一軍に定着。背番号が43から 7 に変わった1979年に正遊撃手に定着し、NPBでは珍しかった「強打の遊撃手」として12本塁打を記録。
1984年は37本塁打で本塁打王を獲得。掛布雅之(阪神)と同率だったが、シーズン最後の中日vs阪神の2試合は両者が互いに敬遠され、勝負を避ける結果となった。1985年にはキャリアハイの41本塁打を記録。NPBで遊撃手としてシーズン40本塁打以上を記録したのは宇野のみである。夏場で投手の調子が落ちてきた時期を狙ったように8月に結果を残すのが得意だったと宇野は回顧している。1988年は新人の立浪和義に遊撃手の座を譲り、二塁手または三塁手で試合出場を続けた。
守備を買われてプロ入りした宇野だが、セリーグのシーズン最多失策を 7 回記録した。星野仙一からは守備が下手だからという理由で「これで守れ」と投手用の大きめのグラブを贈られたりしたこともあったとのこと。一方で1987年に中日に移籍してきた落合博満は、一塁守備の際に宇野からの送球は安定しており、立浪の遊撃守備より信頼できると評価していた。
また、盗塁企図数がそもそも多くはないが、盗塁成功率が5割を割るシーズンが11回あった。このこともあってか、シーズンの目標として「3割30本 3 盗塁」という「トリプルスリー」のジョークを飛ばすこともあった。なお最多本塁打を記録した1984年は打率.253で13盗塁(7盗塁死)、唯一シーズン3割を記録した1989年は打率.304、25本塁打、2盗塁(7盗塁死)でこの「トリプルスリー」が達成できたシーズンはなかった。中日には1992年まで在籍したが、中日時代に記録した334本塁打は球団記録である。
1992年オフに今野隆裕・横田真之との交換トレードで長嶋清幸とともに地元・千葉に本拠地が移転したロッテに移籍。地元出身のスター選手が欲しいというロッテからの要望もあった模様。1993年には打率1割台と成績が低迷していたがオールスターゲームのファン投票で出場。しかし安打を放つと早々に広瀬哲朗(日本ハム)への交替を自ら全パの森祇晶監督(西武)に申し出た。1994年に戦力外通告を受け退団。ロッテ時代は右脇腹の肉離れの影響で痛みを恐れてフルスイングができなくなった、ナゴヤ球場と比べるとどうしても観客の入りの差がある当時の千葉マリンでの試合では活躍へのモチベーションが上がらなかった、と宇野は振り返っている。
1994年オフに中日は高木守道が監督を退任し、星野が監督に復帰するという話が進んでおり、これに合わせて宇野も中日に復帰の予定であったが、10.8決戦の年でシーズンの最後の最後まで巨人との優勝争いをしたことが評価され高木監督が留任。宇野の中日復帰の話も立ち消えとなり現役引退。
引退後は野球解説者。2004年から、現役時代宇野の前の打席に座っていた落合監督の要請で中日の打撃コーチを2008年まで務めた。第2次高木政権下の2012〜2013年も中日打撃コーチを務めている。
2019年には根尾昂が宇野と同じく背番号 7 を背負い、根尾本人と首脳陣の希望もあり遊撃手のレギュラーを目指している。身体能力の高さから様々な起用法を提案されている根尾だが、中日ファンの中の人としては「チーム事情的には外野手のほうが望ましいが、大型遊撃手として育ってほしいという思いもある」といったところである。
以上、Aegis Nova Tokyoにはなぜか宇野のTシャツ着用で参加していた中の人による本日のカウントダウンでした。
参考文献
斉藤直隆「プロ野球最後のサムライ」コアマガジン、2005。
永沢光雄「強くて淋しい男たち」ちくま文庫、2002。
- #6 正岡真二(中日ドラゴンズ)
- やきうではリードして迎えた終盤に、打力は高いが守備があまり上手くない選手を、守備の上手い選手に交代させることがあります。
たいていは小差であってもリードしていて、打力の高い選手に通常なら打席が回らないときとか、指名打者制度がない場合には、投手に代打を出してその代打の選手が守備が上手い場合、そのまま守備につかせる代わりに、打力は高いが守備の上手くない選手の打順に投手を起用する、なんてやり方もあります。
このとき、終盤の守備に入る選手、あるいはその交代を俗に「守備固め」なんていいます。守備固めとして監督が起用しているはずなのに、監督の采配如何では守備が弱化する、なんて話もないではない気もしますがそれはさておき、これまた「スーパーサブ」の一例ですね。
守備固めで起用される選手は、打力が少し足らないことが多いのですが、そりゃ守備が上手くて打撃もよければレギュラーですねえ。逆に打撃不振が続いても、守備が上手ければ守備固めに、足が速ければ代走に、と、スーパーサブで活躍する選手もいるわけです。
例えば最近ですと、松本哲也(巨人)は、打撃不振の時期は守備固めや代走で活躍していました。他に、英智(中日)、上田浩明(西武)なんてあたりが守備のスペシャリストとしての守備固め、川相昌弘(巨人→中日)の選手生活晩年の起用は代打と守備固め、昨年引退した岡田幸文(ロッテ)の昨シーズンの起用はほぼ守備固めでしたね。
古いところでは、スーパーキャッチでおなじみの山森雅文(阪急)も守備固めとしての起用が多かったと思います。
さて、さらに古い話をしますが、そんな守備固めとしての起用が特に多かったのが正岡真二(中日)。旧姓は村上です。
愛媛県立今治南高校から1967年、ドラフト4位で中日入団。以後、現役選手として1984年まで中日に在籍。現役時代の背番号は51→ 6 。その後も守備コーチ、二軍監督、スカウトとして中日に在籍していました。
守備位置は遊撃手でしたが、基本内野はどこでも守れる選手で、通算成績は1188試合出場、288安打、打率.219と、やはり打撃面で課題があったことから遊撃手としては1979年には、昨日のカウントダウンに登場した宇野勝に定位置を譲っていた格好です。
しかしながら1981年の「ヘディング事件」などで有名な宇野のことなので、その後も正岡は守備固めで起用され続け、1983年限りで現役を引退するはずが、翌年の監督を引き受けた山内一弘から慰留されて1年現役生活を延長しています。
この宇野が本塁打王を獲得した1984年が、正岡の現役最後のシーズンです。
とにかく、中日が終盤リードさえしていれば必ず内野守備に出てくる選手、という印象でしたが、そのためかどうか、かの「燃えよドラゴンズ!」では1974年の初版時からその抜群の守備力を讃えられています。こちらで名前だけは知っている方も多いのではないでしょうか。
- #5 辻発彦(西武ライオンズ)
- 辻発彦、西武ライオンズ選手時代の背番号は 5 番。
私が初めて選手グッズを買ったのが辻です。小さいメガホンでした。
一番バッターで必ず塁に出る辻。守れば超美技を魅せてくれる辻。
そんな辻と強いライオンズが大好きだった。
それから幾年月。
スポーツニュースもほとんど見ず、野球とは縁のない生活を送っていました。
しかし、昨年ひょんなことからやきう熱が再燃。
すると、なんということでしょう。
辻がライオンズの監督になっており
更には辻率いるライオンズが2018年リーグ優勝を果たしてしまったではありませんか!
ネットでビールかけのLIVE配信をやると知り、ブラウザを立ち上げた。
そこで見た辻の嬉し涙。
CSを勝ち抜けなかった後、ニュースで見た辻の悔し涙。
とても胸にくるものがありました。
えぇいーやぁ、君からもらーいなーき。
ああ、やっぱり辻が好きだぁぁぁ!
去年はヤクルトばっかり応援しちゃったけど、今年はメラドにも行くね!勝ってね!
- #4
- 拝啓 中日ファンのおじいちゃん
おじいちゃんが今生きていたら、私はいろんな野球の話をしていたでしょう。でも私は横浜ファンだからもしかしたら喧嘩になっているかもしれませんね。
私が野球ファンになったのは最近の事なので、中日が優勝した翌日に母がいろんな新聞を買っている意味が分かりませんでした。おじいちゃんの家の隅にうず高く積まれている表紙が派手な色の雑誌も知りませんでした。今思うとあれは週刊ベースボールでしたね。
生きているうちにもう一度野球が見たいと、豊橋市民球場のナイターの観戦に行ったのを覚えています。母が友達の森下新聞店でチケットを買って、おじいちゃんとおばあちゃん、叔父さんを豊橋市民球場まで送ったこと。いつも閑散としている球場周りが、出入りが大変なくらい人や車でいっぱいなこと。ナイターの照明が煌々として夜とは思えない明るさだったこと。祭りでもあんなに人が集まることはなかったんじゃないかと思います。
中日がリーグ優勝とCS優勝をした年、おじいちゃんは亡くなりました。棺桶にはたくさんの新聞と中日選手が表紙の雑誌が添えられ、おじいちゃんと一緒に旅立ちました。みんなが「中日の優勝記念のやつは全部あんたが持っていきん」と詰めこむものだから、新聞や雑誌だらけになったおじいちゃんの棺桶を見て「これじゃよお燃えるわ」と泣きながら笑いました。
何かのお祝いで一家全員が揃った時の記念写真の横に、今もまだ中日のメガホンが置いてあります。(あとなぜか阪神のメガホンも)日に焼けて鮮やかな青が色褪せ、シャオロンのシールも剥がれかけているけど、色あせた家族の写真と今もそこにあります。
おじいちゃん、今中日で松坂が投げてるって知ってますか?岩瀬や荒木、浅尾は引退しちゃったよ。同郷で背番号 4 を背負う藤井はまだ現役で頑張ってます。豊橋出身のプロ野球選手が他球団にも数名居て、びっくりしてるよ。またお会いした時は、その時は野球の話をしましょう。
- #3 松中信彦(福岡ソフトバンクホークス)
- 熊本県八代市出身。実家は建設業で、2003年のダイエーのパリーグ優勝時のビールかけでは、実家が電気工務店の川崎宗則とともにそれぞれの実家の家業で使用しているヘルメットをかぶって登場した。
高校入学後間もなく利き手の左肘を負傷。打撃はできても投球は無理と医師に診断されたが、父親の提案で右投げに転向した。
父親と家で右投げの練習を日夜続け、半年後には右翼手でレギュラー出場できるほどになった。高校卒業後はプロ入りを断念した際に体育教師になることも考え大学進学も検討したが、プロ入り後の手応えが松中自身にあったことや、肘の手術とリハビリも面倒を見るという条件を示されたこともあり社会人野球の新日鐡君津(現:新日鐡住金かずさマジック)に進む。当時の同僚に森慎二(元西武など)、敷田直人(NPB審判員)らがいる。社会人3年目に左肘を手術。完治して左投げに戻った。1996年のアトランタ五輪野球日本代表に選出され、チームは銀メダルを獲得。
1996年ドラフト2位(逆指名)でダイエーに入団。元々は巨人ファンでダイエーの存在にはそこまで興味がなかったが、社会人時代に実家の熊本から新日鐡君津のある千葉まで両親が応援に来ていたことから、地元に近い球団で活躍し両親の負担を減らしたいと意識し始めたという。入団時の背番号は26。
1999年に一塁手のレギュラーに定着し23本塁打を放ち、リーグ優勝と日本一に貢献。2000年から背番号を 3 に変更し初の打率3割を記録(打率.312、33本塁打、106打点)しリーグ連覇に貢献。シーズンMVPを受賞した。2003年は故障で離脱した小久保裕紀に代わり4番に座り、123打点で最多打点のタイトルを獲得。
2004年には打率.358、44本塁打、120打点の成績を残し 三 冠王を獲得(最多本塁打はフェルナンド・セギノール(日本ハム)と同率)。故障がちになったため「練習で汗を流して前夜の酒を抜く」という習慣をやめ酒を止めたシーズンで残した大記録であった。しかしプレーオフでは19打数2安打と打撃不振で西武にリーグ優勝を許してしまう。その後もポストシーズンではなかなか結果が残せなかったが、2011年11月2日のパリーグクライマックスシリーズ第2戦(vs西武、ヤフードーム)の8回裏に代打で出場し満塁本塁打を放った。
2005年は指名打者での出場機会が多くなったが、指名打者制のないセリーグ球団主催試合などでは左翼手の守備に就く機会も増えた。46本塁打、121打点で2年連続の最多本塁打、3年連続の最多打点のタイトルを獲得。オフにNPB史上最長の7年契約を結んだ。
2006年はシーズン入り前にWBC日本代表に選出され優勝に貢献。指名打者に田上秀則が起用されることが増え、左翼を守る機会がさらに増えた。交流戦までは「変化球を待っていても150km/hの直球を打てるほど打撃を極めた」と言うほど好調であった( http://news.livedoor.com/article/detail/11564955/ )が、後半から負傷で調子を落とし本塁打は減少。それでも首位打者のタイトルを獲得。
2008年にはプロ入り後初の全試合出場を果たしたがチームは最下位。この年退任した王貞治監督最後の試合では最後の打者となってしまった。その後は故障との戦いで、2010年以降は代打出場が中心となった。2015年に退団を発表し、他球団のオファーを待ったがNPBからは声がかからず現役を引退した。
2009年、地元・八代市の当時まだ九州新幹線の終点であった新八代駅前に「八代市松中信彦スポーツミュージアム」がオープンした。松中が八代市に寄贈した野球道具や記念品などが展示されている(ゆるふわ乗り鉄の中の人は全線開通前の九州新幹線に乗るついでに見に行ったことがあります。想像より規模が大きかった印象。隣の物産館でお土産を買って鹿児島に向かった思い出…)。
平成の30年間で三冠王を獲得できたのは松中のみで、数々の選手があと一歩のところで届かなかった(1991年の落合博満(中日)、1995年のイチロー(オリックス)、2002年の松井秀喜(巨人)、2003年のアレックス・ラミレス(ヤクルト)、…)。昭和期に3度の三冠王を獲得した落合は三冠王獲得で最も難しいタイトルは首位打者で、本塁打・打点のトップ争いをする相手は限られているが打率は競争相手が多く首位打者を獲るのは簡単ではないという。年号が変わる今年以降、この高いハードルを越える選手の登場に期待したい。
博多華丸・大吉の漫才「おとうさんといっしょ」に出てくるなぎら健壱「いっぽんでもニンジン」の替え歌「1番でも内川、2番でも今宮、3番でも松中、4番なのに金子???」(その後の「大吉さんは1番秋山2番城島のイメージですか?」のボケも含めて)と博多のお父さんが言いそうな台詞「あれっ、このATMは福銀のカードが使えんばい」という、全国ネットの番組なのに時々入ってくる福岡どローカルネタについ反応してしまう九州人クォーターな中の人(でも中日ファン)による本日のカウントダウンでした。
参考文献
松中信彦、川内イオ(取材・構成)「新 家の履歴書」週刊文春、2017年9月28日号、64〜67ページ
ベースボール・マガジン社(編)「HAWKS the 70th ホークス栄光の軌跡」ベースボール・マガジン社、2008
- #2 田尾安志(阪神タイガース)
- 大阪市出身。野球の強豪校からの誘いもあったが、高校は地元の公立校・泉尾(現:大正白稜)へ進学。入部当初は先輩部員が5名のみ、かつ新入部員10名のうち半分が野球未経験という野球部に入部。その後3番・投手として、練習予定どころか監督を差し置いて各選手のポジション決定まで仕切るほどチームを引っ張り、高3時の夏の府大会で近大付、北陽(現:関大北陽)といった強豪校を下してベスト4まで勝ち残った。同志社大に進学し野球部で投手と外野手(4番打者)を兼任。大学2年時から大学日本代表に選出されていた。
1975年ドラフト1位で外野手として中日に入団。背番号は 2 。バットスピードの速さが評価されて打撃を生かすべく野手として入団したが、当時の監督だった与那嶺要の評価は高くなく「アンダースロー用の代打として期待している」程度の扱いであった。1年目の1976年は開幕一軍入りしたものの代打要員としても出番が少なく、実戦経験を積みたいと田尾自ら志願して二軍行きとなる。シーズン後半に一軍に復帰すると期待通り打撃で活躍しセリーグ新人王を獲得した。
1982年は選手会長を務め、最多安打を記録。シーズン最終戦まで首位打者争いに絡んだが、最終戦で対戦したのが1厘差でリードを許していた長崎啓二属する大洋だった。長崎は出場せず、田尾は5打席連続で敬遠策をとられた。最後の5打席目で抗議の意味で三振しようとしたが、最後のストライクの前にベンチから振るなというサインがあり四球となった(なお、昨季から導入された申告敬遠はこのような場合でもルール上は適用可能なので、このようなスイングによる抗議もできなくなった。そもそもこのような個人タイトルのための露骨なプレーも最近はそこまで見かけないが…)。田尾はタイトルを逃したが、中日は巨人とのリーグ優勝争いもシーズン最終戦までもつれており、この試合に勝った中日が優勝を決めた。首位打者を獲れなかったことより、自チームの選手のタイトル争いを優先させて試合での勝負を疎かにされたことが残念と田尾は振り返る。
1982年オフには当時の中日の抑えだった牛島和彦の年俸アップを求め球団社長に直談判したが、球団社長は「若い時から大金を持つとろくなことがない」と拒否。このように首脳陣にも臆せず意見を言い続けたことが後述のトレードの要因と指摘する声もある。
田尾は1983年・1984年も最多安打を記録するほど活躍していたが、1985年のキャンプイン直前に杉本正・大石友好とのトレードで西武に移籍。西武移籍当初、キャンプ開始時点で体ができ上がっていた西武の選手に合わせるように無理な調整をしたせいか肘を痛めてしまったという。1986年に自身3度目の日本シリーズ出場にして初の日本一を経験するが、森祇晶監督と「馬が合わない」と言い根本陸夫管理部長にトレード志願。1987年に吉竹春樹・前田耕司とのトレードで阪神に移籍した。阪神では代打で活躍し、1988年にはサヨナラ本塁打を3本放った。1991年現役引退。
愛知県出身のイチローが少年時代に地元・中日に在籍していた田尾のファンであった。イチローが打席に入る際のルーティーンであるバットを回して立てる動作も現役時代の田尾の影響と言われているが、田尾の場合はバットを回す回数が多かった。無意識に行っていた動作であったが、上半身と目の位置の調整のために行っていたのではないかと田尾自身は振り返っている。
引退後は野球解説者、タレントとして活動。趣味の釣りは野球に専念していた高校以降しばらく封印していたが、プロ野球選手としての仕事に余裕が出てきた阪神移籍後に再開した。
2004年オフに誕生した楽天の初代監督に就任。2019年から楽天の監督となった平石洋介は田尾にとって同志社大の後輩で、田尾が監督就任直後に臨んだドラフト会議で7巡目に指名された(この年楽天最後の指名)。「ユニフォームに企業名は入れず「東北」を入れて欲しい」など球団首脳陣に要望を出していたが受け入れられず。采配についても球団幹部を介して三木谷浩史オーナーから介入されるなどし、オーナーとの直接対話を求めるも一度も実現しなかったと田尾は回顧している。新球団が生まれたという事情がなければこのまま引退していたであろうベテラン選手も多く、彼らのモチベーションも保てるように選手起用を考えていたところ、若手中心の起用を三木谷オーナーから迫られるなどしていたという。しかし一方で田尾とは西武時代の同僚で、田尾の監督就任10年後の2015年に1年間楽天監督を務めた大久保博元は「ファックスによる現場介入」などといった各メディアの報道を否定しており、三木谷オーナーと直接積極的に交流できていたという( https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2016/05/22/65566/ )。この差は何が原因だろうか…
チーム創設初戦となった2005年3月26日のvsロッテ戦(千葉マリンスタジアム)は3対1で勝利したが、翌日の2戦目で0対26という歴史的な大敗を喫してしまった(この日1安打完封で勝利したロッテ先発の渡辺俊介目当てで中の人は生観戦。渡辺先発の試合らしいテンポのいい試合運びでこの展開にもかかわらず3時間半強で試合が終わったことと、大差で負けている展開でもレフト後方に抜けそうなフライをフェンス際で捕って意地を見せた関川浩一のプレーが個人的には記憶に残っている)。
前年にオリックスを戦力外となった山崎武司を打撃フォームを修正すれば復活可能と判断し楽天が獲得。田尾監督が直接山崎を指導した成果もあってか、前年の4本塁打からこの年25本塁打を打つまで復活した。
1年目は38勝97敗1分という成績でシーズン100敗を逃れるのが精一杯であった。監督契約は3年間であったが、1年で監督を解任。シーズン最終戦のvsソフトバンク戦(ヤフードーム)では選手から胴上げされた。プロ野球には観客からの野次が付き物と思っていたが、ここまで負けが込んでいても当時の仙台での試合では観客に野次られたことがなかったと振り返り、田尾は仙台のファンに感謝していた。
(なお、中の人は以前楽天のIT系のカンファレンスに出て三木谷氏のエピソードを聞いたことがあるが、よく言えば野球でもITでも現場の末端レベルの仕事まで強く興味を持てる人、悪く言えば末端レベルの仕事まで介入してしまう人というイメージ。評価は人それぞれで、当事者でもない立場からは何とも言えないなと…)
一匹狼的立場の世渡りの大変さの話は身につまされると思う一方で、「以前タレントショップブームの頃に田尾のタオル専門店なる店を出していてほどなく閉店した」というどこぞの雑誌で読んだ都市伝説的なエピソードは本当だったんだろうかと思い出してしまった中の人による本日のカウントダウンでした。
参考文献
世良康(聞き手・構成)「釣人かく語りき」つり人社、2014
江國香織「十五歳の群像」新潮社、1998
法元英明「中日ドラゴンズ 伝説のスカウトかく語りき ドラマは球場の外にある」ぴあ、2017
産経新聞文化部(編)「わたしの失敗 III 著名35人の体験談」産経新聞出版、2008
田尾安志「イチロー進化論 なぜ「一流のメジャー」になれたのか」小学館文庫、2001
「田尾安志監督[楽天]が1年で仙台を去った理由」ベースボールマガジン、2015年3月号、60〜61ページ
- #1 イチロー(シアトル・マリナーズ)
- 平成の野球を語るうえでこのスーパースターを欠かすことはできない。
そう、 イチ ローである。
前人未踏の記録を挙げれば枚挙にいとまがない。
NPBの記録だけでも94年から移籍する2000年までの間7年連続首位打者を達成。
「がんばろうKOBE」を背負い阪神大震災の復興のシンボルとしてチームを優勝に導いた95年は首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率の史上初の打撃5冠を達成。
そもそも最多安打というタイトル自体が94年にイチローが史上初のシーズン200本安打を達成したことをきっかけに誕生したものである。
数々の輝かしい実績をひっさげ、日本人野手として初めてMLB挑戦。
非力な日本人が野手として通用するのか?300勝投手ランディジョンソンの背番号51を侮辱している、といった懐疑的な声は多かった。
しかし、そうした声をすべて跳ね返し、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞と数多くのタイトルを獲得し、116勝(勝率.716)と圧倒的な強さでチームを優勝に導いたのである。
その後は84年間破られることのなかったメジャー歴代シーズン最多安打記録を更新、
41連続盗塁成功のアメリカンリーグ連続盗塁成功記録、
10年連続打率3割、200安打、オールスター出場、MLB通算3000本安打を達成するなど
日本だけでなくメジャーリーグを代表するスター選手となったのである。
しかし、スター選手というのは必ずしも記録だけでそうなるわけではない。
イチローはとにかくかっこよかった。
今や強肩外野手による返球の代名詞となっている「レーザービーム」は、イチローの返球を由来としている。
何より打席に入るときのルーティーンである。右肩に左手を当て、バットを投手に向ける。
そのジェスチャーを見てファンは期待を高める。
その期待が最高潮に高まったのが、2009年に開催された第2回WBC決勝韓国戦である。
9回裏3-2とリードしており、クローザーとしてマウンドに上がったのはダルビッシュ有。誰もが優勝を疑っていなかったと思う。が、まさかの炎上で追いつかれ試合は延長へ。
日本は10回表、相手投手のイムチャンヨンを攻め立て2アウト1塁3塁で迎えるバッターは、イチロー。
本来のイチローなら敬遠で満塁策をとられていたことだろう。
しかし、この大会では全試合1番で起用されたイチローはすこぶる調子が悪く、試合前までの打率は.211。
のちにアメリカでプレーすることになる次の打者、中島裕之は今大会.364と当たっている。
韓国バッテリーはイチローとの勝負を選択した。
調子は悪い。それでも、それでもイチローなら…
誰もが信じて見守る。
初球ボール。2球目で1塁ランナーが盗塁し、2塁3塁。
敬遠するのか?しかし韓国バッテリーはなおも勝負を選択。
3球目、空振りで追い込まれてしまう。
見ているだけでも緊張で押しつぶされそうな場面。
ファール、ファール、ファール…1球ごとに上がるボルテージ。
頼む、打ってくれ。決めてくれ。祈った。
そして迎えた8球目。
弾き返した打球は鮮やかにセンター前へ。今後日本の野球史を振り返るたびに流れるであろう、芸術的なセンター前ヒット。
塁上のイチローはクールな表情。ほぼイキかけました。
こうして、イチローは球史に残るスーパースターになった。
今からちょうど10年前、2009年3月23日の出来事だった。
- #1 1 球勝利
- ピッチャーの実績をはかる数値のひとつに「勝利数」があります。よく大谷翔平がメジャーで4勝をあげたとか言いますが、この数字がソレです。
先発して5回以上を投げ、登板中にリードしてそのまま追いつかれず試合終了することで「勝利投手」、つまり勝ちがつくケースが多いのですが、中継ぎピッチャーに関しては、少ない労力で棚ボタ式に勝利投手の称号ゲットが可能なんです!
たとえば9回以降の表に投げて3アウト目を取ったピッチャーがいて、その裏に味方が勝ち越してサヨナラになれば彼は無条件で勝利投手。条件はいろいろありますが、アウトを1つ取っただけ、さらには1球投げただけで勝利投手になれることもあるんです。
さて2018年7月10日の西武戦でプロ野球史上41人目の1球勝利をなしとげたのが千葉ロッテマリーンズの松永昂大投手。
同点で迎えた7回、2アウト一二塁で先発に代わりマウンドに上がると初球で一ゴロに打ち取り、次の回に味方が勝ち越しそのまま逃げ切ったため、1球投げただけの松永投手に勝ちがつきました。
長いイニングを投げた先発ピッチャーからすれば、
「大事なプレゼンのために時間と労力をかけて資料を作ったのは自分なのに、当日の発表だけを担当したぽっと出のヤロウがほめられとるやないか…どういうことなんや!」
的な不公平感があるかもしれませんが、中継ぎピッチャーも毎日いつ来るか分からない出番のために肩を作って待機する大変な職業なので、「たまにはこういうご褒美があるのもやむなしや…しゃーない今日はこのへんで許したろ!」と思うしかありませんね。
- #0 山崎浩司(東北楽天ゴールデンイーグルス)
- 1998年ドラフト3位で近鉄に入団。2003年に一軍初出場を果たしたが、近鉄時代は実働2年、通算3試合の出場にとどまる。
2004年オフに近鉄はオリックスと合併し、楽天が新規参入した。これに伴う分配ドラフトでいったんオリックスへの所属が決まった。
2005年シーズン開始前に上村和裕とともに菊地原毅とのトレードで広島に移籍。広島で背番号 00 を着ける。この年プロ初安打と初本塁打を記録し、シーズン後半には2番ショートでスタメンに定着。
2006年はショートの座を新人の梵英心に奪われ、出場機会を大幅に減らす。
2007年も出場機会が少なかったが、シーズン後半にセカンドでスタメン出場する機会が増えた。そして8番セカンドでスタメン出場していた8月15日の広島vs巨人戦(広島市民球場)の7回表、1-1の同点で一死二三塁の場面。ここで一度マウンドに野手が集まったが、その後二塁走者の阿部慎之助を隠し球でアウトにした。これで巨人のチャンスを潰した広島は9回裏に栗原健太のサヨナラ安打で勝利した。これを記念して球団は
野球の基本 ボールから目を離さない 山崎浩司
がプリントされたTシャツを制作・販売した。
2008年シーズン途中に田中彰とのトレードでオリックスに復帰。オリックスでも引き続き背番号 00 を着けた。2009年6月30日のソフトバンクvsオリックス(ヤフードーム)の2回裏、4-0のビハインドで一死二塁の場面。二塁走者だった高校(大産大付)の1年先輩・田上秀則をまたも山崎は隠し球でアウトにした。タッチの際には「すみません!」と謝りながらだったという( http://amakuchisisi.blog129.fc2.com/blog-entry-2868.html )。
この試合は終盤に打ち込まれ2-13と大敗したが、オリックスでも隠し球記念Tシャツが制作・販売された( https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/711.html )。隠し球を複数回成功させた選手はいるが、セ・パ両リーグで成功させた例は珍しい。この年はキャリアハイの97試合に出場、打率.297と打撃も好調で故障がちだった内野陣の穴を埋めるべく内野の4ポジションを守った。
2010年には背番号を2に変更。78試合に出場したが打率が2割を割ってしまった。2011年は48試合出場と出場機会は少なかったが、控え内野手として1年間一軍に帯同した。2012年は外野を守ることもあったが、シーズン途中で二軍落ちし一軍に戻ることはなかった。オフに原拓也とのトレードで西武に移籍。
2013年、2014年はともにシーズン途中に負傷で離脱した後はシーズン終了まで一軍に戻れなかった。2014年オフに戦力外通告を受け楽天に移籍。2015年に現役を引退した。
隠し球は日本の戦時中に禁止されていた時期があり卑怯と思われることも多いが、ルール上は問題ないプレーである。選手・コーチがボールから目を離さないことが重要で、プレーが一段落した時点でタイムをかければ防ぐことが可能である。また隠し球を仕掛ける側も、隠し球で走者をアウトにできるタイミングに関するルールの熟知と演技力が要求されるため、成功させることが難しいプレーである。
本日はついにDarsana Prime Tokyo当日。果たして今回両陣営に「隠し球」はあるのでしょうか。
ただ、くれぐれも各種法令とエージェントプロトコルは遵守の上で、白熱した戦いを期待したい当日東京入りで現地遠征参戦予定の中の人によるDPTラストのカウントダウンでした。
ENLの一員として勝ちに行きます。
Go Enlightened!














































